表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
捨てられ第三王子は、信頼を取り戻したいだけなのに、崩壊寸前の辺境領と婚約破棄寸前の令嬢まで任されました  作者: 玖城イサ
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
88/107

第88話 名前を残す

 


 翌朝、実務室の机には新しい書式が並んでいた。


 古い名簿より、欄が多い。


 家名。

 人数。

 子ども。

 高齢者。

 働き手。

 病人。

 今いる場所。

 移動の有無。

 受給の要否。


 そして一番下に、小さく新しい欄がある。


 備考。


 ヘルマンがその紙を見て、渋い顔をした。


「増やしましたな」


「増やした」

 とレオンは答えた。


「面倒になりますぞ」


「知ってる」


「書く側も、読む側も」


「それでも要る」


 備考欄には、数字に乗りきらない事情を書く。


 働き手が病で寝ている。

 子が小さすぎる。

 冬の前に流れてきた。

 片足を悪くして薪運びができない。

 修道院へ避難中の家族がいる。


 数字だけなら、どれも切れる。

 だが現場では、その切れなさがそのまま命に関わる。


 フィアナが紙を手に取った。


 薄灰の瞳が、新しい欄を順に追う。


「……家族構成まで入れるのですね」


「入れる」

 とレオン。


「徴税対象としてだけ見るなら不要です」


「だから、そうしない」


 短い沈黙が落ちた。


 フィアナはもう一度、紙を見る。

 それから小さく言った。


「初めてですね」


「何が」


「名簿が、取り立てのためだけではなくなるのは」


 レオンは答えなかった。

 でも、その通りだと思った。


 前世でも名簿や台帳はあった。

 人を助けるためのはずの管理表が、途中から責任回避と切り捨ての表へ変わるのを見てきた。


 だからせめて、ここでは逆にする。


 税のために人を数えるんじゃない。

 人を守るために、必要な税と手を決める。


 順番を戻す。


 それだけの話だ。

 でも、それがたぶん一番難しい。


 昼から、新しい書式での聞き取りが始まった。


 最初はまた警戒された。


「そんなに細かく書いて、何に使うんだ」

 と年嵩の男が言う。


 レオンは机越しに答える。


「冬の配分と、労役の免除判断に使う」


「免除?」


「働き手がいない家に、同じように出しても回らない」

「子どもと病人が多い家も同じだ」


 男はすぐには信じない顔だった。


 それでも、昨日までより少しだけ話を聞く顔をしている。

 鍋が来ている。

 聞き取りも続いている。

 その事実が、言葉を先に押していた。


 別の女は、備考欄を見て少し戸惑った。


「こんなところまで書くのかい」


「書きたくないことは、無理に書かなくていい」

 とフィアナが言う。


 その声は静かで、よく通った。


「ですが、書かれていなければ、次に見る者も分かりません」

「今までが、そうでしたから」


 女はしばらく紙を見てから、小さく頷いた。


「じゃあ、息子の足のことも書いとくれ」


 その一言で、机の向こうの空気が少しだけ変わる。


 若い見習い書記が手を動かす。

 エルザが横で名を確かめる。

 マルタが列を切る。

 セリスは記入の揺れを直し、ヘルマンは古い名との照合印を入れる。


 そしてフィアナは、一つずつ顔を上げて聞いていた。


 その姿を見ながら、レオンは少しだけ昨日の広場を思い出す。


 鍋の前で立った彼女。

 嫌われ役のまま終わらなかった声。


 今はもっと静かな場だ。

 拍手もない。

 歓声もない。

 でも、この机の前の方が、たぶん信頼は深く積まれる。


「殿下」

 とセリスが低く呼ぶ。


 差し出された紙には、今日の新規記載家数が並んでいた。


 想定より多い。

 つまり、それだけ今まで帳面の外にいた家が多いということだ。


「増えましたね」

 とセリス。


「いいことではありますまいな」

 とヘルマン。


「でも必要だ」

 とレオンは言った。


 必要だし、遅すぎた。


 机の前に立った痩せた老人が、書き終えた紙を見つめていた。


「これで、残るのか」


 誰にともなく出た声だった。


 レオンは顔を上げる。


「何が」


 老人は少しだけ迷ってから言う。


「わしらのことがだ」


 部屋が静かになった。


 暖炉の火の音。

 紙をめくる音。

 外の風。


 その全部が、一瞬だけ遠くなる。


 レオンは答えを飾らなかった。


「残すために書いてる」


 老人は何も言わなかった。

 ただ、書き終えた紙へ、しわだらけの指をそっと置いた。


 大げさな礼はない。

 感動的な言葉もない。


 でも、その手つきだけで十分だった。


 この名簿は、少なくとも今日だけは、人を削るための紙ではない。


 夕方、最後の聞き取りが終わる頃には、机の端に新しい束ができていた。


 生きている名前の束だ。


 まだ粗い。

 抜けもある。

 嘘も混じるだろう。

 それでも、昨日までよりずっとましだった。


 フィアナが束を整えながら言う。


「これなら、次の配分はもっと正確にできます」


「そうだな」

 とレオン。


「あと、労役の線引きも」


「はい」

 彼女は頷く。

「同じ家へ同じ重さを載せずに済みます」


 それが大きい。


 公平は、全員へ同じように押しつけることじゃない。

 今のフェルドには、もうそれが分かり始めていた。


 片付けの最後、セリスが古い文書束を脇へ寄せようとして、ふと手を止めた。


「これは……」


「どうした」

 とレオンが聞く。


 彼女が抜き出したのは、名簿ではない。

 王都式の封と印が残る、古い書状の写しだった。


 差出人の欄は薄れている。

 だが宛名だけは読めた。


 フィアナ・ベルクライン。


 フィアナもそれに気づき、動きを止める。


 空気が少しだけ変わった。


 名簿の束とは別の、もっと古く、もっと個人的な紙の重さが、そこにあった。


 セリスは書状を開かずに言う。


「名簿の山に混ざっていました」

「王都から来た古い整理文書の束です」


 レオンはその封を見た。

 薄れた印。

 残った宛名。

 そして、フィアナの指先がほんの少しだけ強く紙を押さえているのを見た。


 冬を越すための名前は、少しずつ拾えてきた。


 だが次に向き合うのは、領地の名ではなく、彼女自身に刻まれた古い傷なのかもしれなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ