第87話 二重徴税の痕
夜が更けるほど、紙の赤線は増えた。
レオンは肩を回した。
背中が重い。
前世の月末作業を少し思い出す。
違うのは、今ここでずれた数字が、そのまま冬の生死へ繋がることだった。
机の上には三つの束がある。
旧名簿。
徴税控え。
新しい聞き取り表。
本来なら、三つはゆるくでも噛み合うはずだった。
だが実際には、噛み合わないどころか、悪意のある重ね方をされている。
「ここです」
とセリスが一枚を差し出した。
北道手前の村。
去年秋の徴税控え。
同じ家名が、二度ある。
一つは村側控え。
もう一つは、領都滞在者への臨時徴収。
「二重ですね」
フィアナが冷たく言う。
「しかも別名目だ」
とレオン。
「片方は冬備え税、片方は流入者整理費」
ヘルマンが顔をしかめる。
「見事に嫌らしい」
「同じ家から、同じ季節に二度取ってる」
レオンは紙を置いた。
「しかも名目を変えてるから、その場では分かりにくい」
マルタも別の控えを持ってくる。
「こっちもです」
「夫が村で払って、妻が領都側の列でまた払わされてる」
「夫婦が別表に入っていたのか」
とレオン。
「はい」
マルタは頷く。
「移動中扱いの家でした」
移動。
避難。
流入。
その曖昧さを利用している。
一度きりの抜きじゃない。
仕組みに寄生したやり方だ。
前世でも見たことがある。
部署をまたいだ曖昧な費目。
誰も全体を見ない前提での二重計上。
細かく刻めば、怒りは一件ごとに小さくなる。
でも積み上がれば、人だけが確実に削れる。
「これでは忠誠じゃなく、怨みしか残らないな」
気づけば、口からそう出ていた。
フィアナが一瞬だけ手を止める。
それから、小さく頷いた。
「はい」
「領主側の名を聞くだけで顔が硬くなる理由が、これでまた増えました」
ドルクが腕を組んだまま言う。
「切りますか」
「切る」
とレオンは答える。
「でも今すぐ見せしめだけやっても浅い」
「証拠を固める?」
とセリス。
「それもある」
レオンは紙束を指で揃える。
「もう一つは、返す基準を作ることだ」
カイルが戸口近くで驚いた顔になる。
「返す?」
「二重で取った分だ」
若い兵は言葉を失ったようだった。
無理もない。
この領地で、一度取ったものが戻ると考える方が珍しい。
「全部はすぐ無理だ」
レオンは先に言った。
「でも、戻す前提を作らないと新しい名簿も信用されない」
セリスが静かに言う。
「……重いですね」
「知ってる」
重い。
今のフェルドに余裕がないことも分かっている。
それでも、取っただけで終われば、名簿はまた別の取り立て帳面にしか見えない。
フィアナが新しい表へ目を落とした。
「最低でも、印は分けるべきです」
「正規徴税、未納整理、誤徴収確認」
「それに返戻待ち」
とレオン。
「はい」
二人の言葉が、机の上で揃っていく。
こういう時、フィアナは速い。
怒りで手を乱さない。
むしろ怒っている時ほど、紙の切り方が鋭くなる。
レオンはその横顔を一瞬だけ見た。
王都では冷たいと言われた女。
でも今ここで必要なのは、たぶんその冷たさの方だ。
感情に任せて机を叩くより、次に壊れない表を作る方が何倍も難しい。
「他にもあります」
セリスが別の束を開いた。
「死者の名で滞納扱いになり、残った家へ追徴」
「同一家屋なのに、村控えと領都控えで家数を別計上」
「この辺りは、意図していないと説明がつきません」
「説明は要らない」
とレオン。
「並べれば十分だ」
ヘルマンがゆっくり頷いた。
「昔の帳面でも、ここまで露骨なのは久しいですな」
「昔からあったのか」
とレオン。
老人は少しだけ目を伏せた。
「小さな抜きは、どこの領でもあります」
「ですが、ここまで名簿そのものを歪めてまで重ねるのは、領地が弱ってからです」
弱ったところへ寄る。
それもまた、よくある形だった。
余裕のある所より、声を上げられない所の方が抜きやすい。
弱いからさらに取られる。
取られるからさらに弱る。
最悪の循環だ。
レオンは紙の山を見た。
ここにあるのは、ただの間違いじゃない。
長く積まれた怨みの控えだ。
「新しい名簿は急ぐ」
と彼は言った。
「旧帳簿の不正確認とは切り分ける」
「一緒にやると?」
とフィアナ。
「現場が止まる」
レオンは答える。
「今欲しいのは、まず冬を越すための今の人数だ」
「そのうえで、古い方を掘る」
セリスが確認する。
「そうだ」
全部を一気に正したくなる。
だがそこで欲張ると、今生きている人間の表がまた後回しになる。
順番を間違えるな。
それはもう、この領地で何度も見た失敗だった。
マルタが控え板を抱え直す。
「じゃあ、炊き出し側でも聞き方を変えます」
「人数だけじゃなく、前にいつどこで払ったかも」
「頼む」
とレオン。
「嫌なこと聞かせますねえ」
「知ってる」
マルタは嫌そうな顔のまま、でも頷いた。
そこが頼りになる。
夜は深い。
暖炉の火はある。
でも部屋の冷えは消えない。
その時、カイルがぽつりと言った。
「……名簿って、怖いですね」
誰もすぐには返さなかった。
怖い。
その通りだ。
剣や槍の怖さは見える。
だが紙の怖さは、静かすぎる。
気づいた時には、もう長く噛まれている。
レオンは白紙の新表へ目を落とした。
だから、今度は噛みつくための紙じゃなく、支えるための紙に変えなければならない。
そのために、どこまで書くべきか。
何を記して、何を線引きするべきか。
答えは、もう机の上に半分出ていた。




