第86話 家ごとの事情
領都外れの裏路地は、昼でも冷えていた。
雪は踏み固められ、黒い泥と混ざっている。
表通りの鍋場に並ぶ顔より、こっちの方が痩せて見えた。
フィアナは外套の前を押さえながら、マルタの後ろを歩いた。
「この辺りは、炊き出しに毎日は来ません」
マルタが言う。
「来られない家もあるし、来たがらない家もあります」
「恥で?」
とフィアナ。
「それもある」
マルタは肩をすくめた。
「でも一番は、名を聞かれるのが嫌なんですよ」
その答えが、少しだけ重かった。
昨日までなら、フィアナはそれを単なる警戒心として受け取ったかもしれない。
だが今は違う。
名を出すこと自体が危険だった家も、きっとあった。
最初の家は、半ば崩れた石壁の奥にあった。
母親が一人。
子どもが二人。
仮名簿では、子どもは一人になっていた。
「下の子は、どこにも出してませんでした」
女は目を伏せたまま言う。
「去年の徴税の後で生まれて……役所へ出すと、すぐ人数を増やされると思って」
フィアナは返事を急がなかった。
役所へ出せば、保護ではなく取り立てへ繋がる。
そう思われていたのだ。
「父親は」
と彼女が静かに聞く。
「冬前に山で死にました」
女の声は乾いていた。
泣きもしない。
泣きすぎて、もうそこを過ぎた声だった。
マルタが横で控え板へ書きつける。
家の人数。
働き手なし。
乳飲み子ではないが、まだ小さい子。
火が持たない日がある。
フィアナは扉の内側を見た。
布。
藁。
小さな鍋。
壁際に寄せられた薪の残り。
少ない。
少なすぎる。
次の家では、逆に人数が一人多かった。
老人の名がまだ残っている。
だが本人は、秋の終わりに死んでいた。
「届けてません」
息子が先に言った。
「届けたら、今度は別の名目でまた取られる」
「死者の税ですか」
フィアナは聞いた。
男はそこで初めて顔を上げた。
「前にありました」
「死んだのが記録に入ってないから、滞納だって」
それは最悪の形だった。
死んだ者の名が消えない。
消えないまま税だけ残る。
そして払えなければ、今生きている家へ被る。
紙が人を守らないどころか、紙そのものが噛みついてくる。
フィアナは手袋の上から指を握った。
怒りはあった。
だがそれ以上に、胸の奥に鈍いものが落ちる。
これが、この領地で制度と呼ばれてきたものか。
三軒目では、若い女が最初から扉を閉めようとした。
「名だけ聞きます」
とフィアナが言っても、女は首を振る。
「前もそうだった」
「名を出して、人数を書いて、その後で楽になったことなんてない」
正しい拒絶だ、とフィアナは思った。
制度が何度も裏切ってきた相手へ、今さら名を出せと言うのは、こちらの都合でしかない。
けれど必要でもある。
彼女が言葉を探していると、マルタが先に口を開いた。
「今回は鍋が来てるだろ」
女の手が扉の内側で止まる。
「昨日も来たし、今日も来る」
マルタはいつもの調子で言う。
「嘘だけで毎朝あれは炊けないよ」
雑な言い方だった。
でも、たぶんこれくらいでいい。
綺麗な約束より、昨日渡った一杯の方が効く。
女はしばらく黙ってから、扉を少しだけ開けた。
その奥に、痩せた少年が二人いた。
仮名簿には一人しか載っていない。
「下のは、妹の子です」
女が低く言う。
「妹は病で死んだ」
「でも、この子まで書いたら家数が増える」
家数が増えれば、今度は税と労役が増える。
だから隠す。
誰が悪い、だけでは切れなかった。
レオンが実務室で言っていた言葉が、フィアナの中で少し形を変える。
名簿は税のためじゃない。
まず冬越えのために使う。
その順番を、今までこの領地は逆にしていた。
だから人は名を隠した。
死者を消さず、子を記さず、家族を分けた。
「……制度を信じていなかったんですね」
フィアナは自分でも気づかないうちに、そう漏らしていた。
マルタがちらりとこちらを見る。
「信じる理由がなかったんですよ」
責める声ではない。
ただ、事実だった。
フィアナはそれを受け止めるしかなかった。
自分は長く実務を担ってきた。
不正と不足の中で、壊れきる前の線を引いてきたつもりだった。
でもその線は、現場へ届く前に何度も歪められていた。
そして歪んだ制度だけが、領民の側へ残った。
夕方近く、外れの最後の家で、彼女は小さな女の子に見上げられた。
「おねえさん、また名前きくの」
冷たい空気の中で、その声だけが妙にまっすぐだった。
フィアナは少しだけしゃがむ。
「ええ」
「とるため?」
その問いに、一瞬だけ言葉が詰まる。
嘘は言いたくなかった。
でも、ここで綺麗に飾るのも違う。
「……今度は、残すためです」
女の子は意味が分からない顔をした。
それでも、母親の袖を握ったまま黙る。
フィアナは立ち上がり、外套を整えた。
冷たい風が吹く。
頬が痛い。
でも、その痛さより強く残ったのは、別の感覚だった。
この領地は、ただ飢えていたのではない。
長く数え方を間違えられていた。
夜、実務室へ戻ると、レオンも同じように紙の束を前にしていた。
「どうだった」
と彼が聞く。
フィアナは手袋を外しながら答える。
「人が制度を騙したのではありません」
「先に制度が人を脅していました」
レオンは少しだけ目を細める。
「そうか」
「はい」
彼女は頷いた。
「だから、皆、名を隠していました」
部屋が静かになる。
暖炉の火だけが低く鳴っていた。
その静けさの中で、セリスが新しい照合表を差し出した。
「でしたら、こちらも嫌な形で合いそうです」
フィアナが受け取る。
そこには、旧帳簿と今日の聞き取りを重ねた印が並んでいた。
赤い線が、多い。
多すぎた。
「何ですか、これ」
と彼女が低く聞くと、レオンが答えた。
「名簿の歪みじゃ終わらないってことだ」
その紙の先に、まだ別の腐り方が待っていた。




