第85話 紙の上の領地
炊き出しの列が少し短くなった朝、実務室の机は逆に紙で埋まっていた。
控え札。
仮名簿。
古い村別台帳。
死者の報せを書きつけた走り書き。
誰がどこで受け取ったかも怪しい、擦れた受領札。
レオンはその山を見下ろした。
昨日は鍋を回した。
今日は紙を回す番だった。
「多いですね」
とカイルが素直に言った。
「少ないよりましだ」
とレオンは返す。
「少なく見えてた時の方が壊れてた」
ヘルマンが鼻を鳴らした。
「名言のように聞こえますが、実務の地獄でしかありませぬな」
「分かってるなら手を動かしてくれ」
老人はぶつぶつ言いながらも、もう古い帳簿束を解いていた。
フィアナは昨日の控え札箱を開け、家名の並びを追っている。
拍手の余韻は、もうその顔にはない。
代わりにあるのは、いつもの静かな張り詰め方だった。
セリスが新しい紙を何枚か机へ並べる。
「昨日一日だけで、仮名簿と食い違った家が三十を超えました」
「領都内だけで、です」
「村側は」
とレオン。
「もっと酷いでしょう」
フィアナが答えた。
「冬前に戻った者、出ていったままの者、死んだのに村側へしか報せていない者」
「逆に、領都で生きているのに村の名簿へ残った家もあります」
「つまり、今の名簿は使えない」
とレオン。
「正確には」
セリスが紙を揃える。
「使うたびに揉めます」
それが一番困る。
足りないこと自体は、もう隠せない。
だが、足りない中でどこへどれだけ回すかまで曖昧だと、今度は仕組みそのものが信用を失う。
レオンは昨日の控え札を一枚手に取った。
家名。
人数。
受領印。
簡単だ。
だが、その簡単なものすら、この領地は長く持てていなかった。
「全面でやる」
とレオンは言った。
部屋の空気が少しだけ変わる。
ドルクが腕を組んだ。
「戸口調査まで含めて、ですか」
「含める」
「冬の最中に?」
「冬の最中だからだ」
レオンは短く返す。
「今の名簿で春まで行く方が危ない」
マルタが控え板を抱えたまま頷いた。
「炊き出しでも出ましたからね」
「いないはずの家へ控えが残ってて、逆に今日食う家がどこにも書かれてない」
「しかも」
フィアナが別の紙を出す。
「同じ家が、領都側と村側の両方に入っているものがあります」
カイルが目を丸くした。
「そんなこと、あるんですか」
「あります」
フィアナは淡々と言う。
「逃げた先で生き延びるために名を残す者もいますし、残された側が税を軽くするために人数を減らすこともあります」
「逆もあります」
「逆?」
とカイル。
レオンが答えた。
「配給が来る時だけ人数が増える」
若い兵は嫌そうに顔をしかめた。
だが、それも責めきれない。
制度が信じられていない土地では、人は制度を守るより先に、制度から身を守る。
前世でもそうだった。
雑な評価制度の下では、真面目な報告より、怒られない形に数字を寄せる人間の方が増える。
壊れた仕組みは、人まで壊す。
「村を回る手が足りません」
とドルクが言う。
「見張りも炊き出しも落とせない」
「だから全部は一度にやらない」
とレオン。
「領都内から切る。次に北道沿い。雪で死にやすいところから先だ」
セリスがすぐに紙へ書きつける。
「優先順は」
「領都内の炊き出し対象家、外れの流入者、北道沿い、谷向こう」
レオンは指で机を叩いた。
「名簿は税のためじゃない。まず冬越えのために使う」
フィアナが顔を上げる。
その視線は短かったが、少しだけ柔らかかった。
「……はい」
と彼女は言った。
「その順番なら、現場とも噛み合います」
ヘルマンが古い帳簿をめくる。
「では古い名簿はどうします」
「捨てない」
とレオン。
「今の生きた名前を作るための下敷きにはなる」
「妙に優しいですな」
「優しくない」
レオンは紙の山を見たまま言う。
「ここに残ってる間違いが、そのままどれだけ削ってきたか確認したいだけだ」
ヘルマンは少しだけ口元を上げた。
「そちらの方が、よほど嫌らしい」
「褒めてるならやめてくれ」
小さな笑いはすぐ消えた。
現実の段取りが先に来る。
フィアナが領都の簡略図を広げる。
「炊き出しの列で見えた家から当たります」
「表通りではなく、裏路地側も」
「一人で抱えるな」
とレオン。
「抱えていません」
「その返しが怪しい」
セリスが横から淡々と挟む。
「お二人とも、そういう会話をしている時間があるなら役割を切ってください」
「厳しいな」
とレオン。
「事実です」
マルタが笑いを噛み殺しながら言う。
「私とエルザで、炊き出しに来る家の聞き取りを増やします」
エルザ。
配給所の見習いの少女だ。
まだ若いが、列の顔を覚えるのが早い。
レオンは頷いた。
「頼む。顔と器だけじゃなく、誰と来るかも見てくれ」
「分かってますよ」
マルタは控え板を叩いた。
「食う家は、並び方に出ます」
その言い方は雑だったが、たぶん正しい。
机の紙は減らない。
むしろ増えていく。
それでも、昨日までとは違った。
昨日は足りないものを配るための紙だった。
今日は、生きている人間を取り戻すための紙だ。
レオンは白紙の新しい表を手前へ引いた。
家名。
人数。
子ども。
高齢者。
働き手。
病人。
今いる場所。
書きながら、少しだけ迷う。
欄が増えるほど、手間は増える。
でも減らしすぎると、また人が見えなくなる。
前世でも、それを何度も見た。
数字だけが残って、現場にいる人間が消えるやり方を。
「まず名前だ」
レオンは小さく言った。
「話はそこからにする」
フィアナが隣で、同じように白紙を引き寄せる。
「はい」
その一言は短かった。
けれど昨日までより、少しだけ揃っていた。
そして昼前、最初の聞き取りから戻ったマルタが、紙束を抱えたまま嫌そうに言った。
「殿下」
「紙の上より、実際の方がもっと酷いですよ」




