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捨てられ第三王子は、信頼を取り戻したいだけなのに、崩壊寸前の辺境領と婚約破棄寸前の令嬢まで任されました  作者: 玖城イサ
第一章

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第84話 令嬢の声

 


 静かになったのは、皆が彼女を好いていたからではない。


 むしろ逆だと、フィアナはよく知っていた。


 この領地で自分の名が上がる時、それは大抵、面倒な決定の後だった。

 削る時。

 止める時。

 順番をつける時。


 嫌われ役であることには慣れている。


 慣れていたはずだった。


 それでも今、鍋の前へ出る足は少しだけ重かった。


 悪女。

 冷たい令嬢。

 帳面ばかり見て、人の顔を見ない女。


 その手の言葉は王都でも領都でも聞いた。

 反論しなかったのは、反論する時間があるなら別の数字を見た方が早かったからだ。


 でも今日は違う。


 ここで黙れば、崩れるのは自分の評判ではない。

 鍋だ。

 列だ。

 今夜を越えるはずの火だ。


 フィアナは鍋の脇へ立つマルタを見た。


「鍋は止めないでください」


 マルタは一瞬だけ目を丸くした。

 それから、すぐに頷く。


「分かりましたよ」


 柄杓は動いたままになる。

 それがよかった。


 言葉だけでなく、鍋も回っている。

 その方が、この場には効く。


 フィアナは列を見た。


 寒さに縮こまる顔。

 疑う顔。

 睨む顔。

 ただ、空になった器だけを見ている顔。


 その全部へ、一度に届く言葉なんてない。

 だから大きな演説は要らない。


「足りません」


 最初に、彼女はそう言った。


 広場の空気が少し揺れる。


 後ろの方で、小さく息を呑む音がした。

 子どもを抱いた母親が、器を胸へ引き寄せる。

 老人の一人が、黙って視線を落とした。


 きつい言葉だ。

 だが、今さら隠してどうなる。


「今日の分も、明日の分も、十分とは言えません」

「村も、領都も、どちらも余裕がありません」


 ざわめきが起きかける。

 だが、まだ大きくはならない。


 皆が続きを待っていた。


「だから順番をつけています」

「子どもと老人を先に通すのは、今夜、熱と火に耐えきれない者から落ちるからです」

「村便を切らないのは、村が止まれば春に領都へ戻る荷そのものが減るからです」


 誰かが何か言いかけた。

 だがフィアナは止まらなかった。


「領都だけ守れば済む話ではありません」

「村だけ守っても済みません」

「今のフェルドは、どちらか片方を切れば、残った方も後から死にます」


 その言葉は綺麗ではない。

 だが綺麗にする気はなかった。


 列の前の老女が、器を抱えたままじっと見ている。

 後ろの若い男はまだ不満そうだ。


 それでも、さっきのようなざわめきは少し薄くなる。


 フィアナは続けた。


「私を嫌うのは構いません」

「冷たいと言われるのも、今さら否定しません」

「ですが、ここで鍋を倒せば、消えるのは私の顔ではなく、あなた方自身の今日の分です」


 その一言で、何人かが反射的に鍋を見る。


 マルタの柄杓が、そこで一度だけ鍋の縁に当たった。

 短い金属音が、妙にはっきり響く。


 怒りは抽象へ向かうと大きくなる。

 だが鍋の中身へ戻すと、少しだけ現実の重さを思い出す。


 列の後ろで、さっき煽っていた男が口を開く。


「じゃあ、この寒さも、その順番も、全部飲めってのか」


 フィアナはその男をまっすぐ見た。


「飲むしかありません」


 即答だった。


 その返しに、前の列が少しざわつく。

 きつすぎると感じた者もいるだろう。

 でも彼女は引かなかった。


「楽になるとは言いません」

「公平に感じるとも言いません」

「それでも、今ここで全員を明日へ送る可能性が残る形は、これです」


 男が顔をしかめる。


 フィアナは一歩だけ前へ出た。


「私は、この領地の帳面を見てきました」

「倉を見ました」

「門の外に人が溜まるのも見ました」

「村で火が消えかけているのも見ました」


 雪の冷たさとは別の、張りつめたものが胸の奥にあった。


「だから言います」

「今の順番は、好みではなく、生き残るための順番です」


 広場が静まる。


 その静けさは、まだ味方ではない。

 だが少なくとも、敵の声だけではなくなっていた。


「……私を憎むのは後で構いません」

 フィアナは言った。

「春まで持ちこたえてから、好きなだけ言ってください」

「ですが今は、鍋を守ってください」

「列を守ってください」

「それが、あなた方自身の家を守ることになります」


 言い終えた時、自分でも少し息が浅いのが分かった。


 長い演説ではない。

 でも彼女にしては多い言葉だった。


 沈黙が落ちる。


 それは失敗の沈黙にも見えた。


 だが、違った。


 列の中ほどの年嵩の女が、最初に器を抱えたまま小さく頷いた。


「……その通りだよ」


 誰へ向けたのかも曖昧な、小さな声。


 その隣で、木椀を両手で持った男が視線を伏せる。

 後ろの母親も、子どもの肩を抱き寄せたまま何も言わない。


 そして、ぱち、と拍手が一つ鳴った。


 大きくない。

 乾いた手の、小さな音だ。


 誰が打ったのか、すぐには分からなかった。

 だが次にもう一つ。

 また一つ。


 広場全体が沸くような拍手ではない。

 それでも、確かに広がった。


 フィアナは一瞬、何の音か分からなかった。


 自分へ向けられる拍手を、こういう場所で想像したことがなかったからだ。


 後ろでレオンが何も言わないのが分かった。

 止めない。

 飾らない。

 ただ、そのまま受けさせている。


 それが少しだけ、ありがたかった。


 さっきまで声を張っていた男たちは、もう大きくは言えなくなっていた。


 ドルクが若手兵へ目配せする。

 兵たちは騒ぎ立てず、二人を列の外へと切り離した。


 力でねじ伏せるのではない。

 耳を失った火種を、静かに外へ出す動きだった。


 鍋は回る。


 列も進む。


 さっきまで固かった空気が、完全ではないにせよ、少しだけ戻る。


 マルタがいつもの調子で怒鳴った。


「ほら、止まらない!」

「次の人、器を出しな!」


 その声で、広場にようやく日常の方の重さが戻ってきた。


 フィアナはそこで初めて、小さく息を吐いた。


「大丈夫か」


 横へ来たレオンが、低く聞く。


「ええ」

 とフィアナは答えた。

「少し、喋りすぎましたが」


「必要な分だ」


 短い返事だった。

 でもその短さが、妙にちょうどよかった。


 フィアナは鍋の湯気を見た。

 拍手の余韻はまだ少しだけ耳に残っている。


 嬉しい、という言葉では足りない気がした。


 むしろ、長く凍っていた場所へ、ようやく何かが触れた感じに近い。


 自分の名が、この領地で嫌な決定だけと結びつくのではないかもしれない。


 その可能性が、ほんの少しだけ見えた。


 だが同時に、レオンはもう別の紙を見ていた。


 セリスが新しい控え札を持ってきている。

 ヘルマンは眉を寄せ、箱の中身を数え直していた。


「何かありましたか」

 とフィアナ。


 セリスが答える。


「今日の列だけで、仮名簿と合わない家がかなり出ています」

「死者の名で残っている家、逆にどこにも載っていない子ども、二重登録」


 ヘルマンも嫌そうに頷いた。


「紙の上の領地が、もう実際と噛み合っておりませぬ」


 レオンは広場の列を見たまま言った。


「拍手で冬は越せないな」


「はい」

 とフィアナは答える。


「でも、今日のこれは必要でした」


「分かってる」

 レオンは紙束を指で揃えた。

「そのうえで、次は名前だ」


 広場にはまだ列がある。

 鍋の湯気も上がっている。


 それでも、もう次の仕事が見えていた。


 誰がどこにいるのか。

 誰が死に、誰が逃げ、誰がまだ数えられていないのか。


 それが分からないままでは、この冬も、その先の春も、まともには組めない。


 フィアナは控え札の箱を見つめた。


 古い紙。

 欠けた名。

 空いた欄。


 今日、初めて自分へ向けられた拍手よりも、たぶん次に必要なのはそちらだった。


 この領地を、本当に立て直すなら。


 紙の上のフェルド領を、今度は生きた名前で作り直さなければならなかった。


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