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捨てられ第三王子は、信頼を取り戻したいだけなのに、崩壊寸前の辺境領と婚約破棄寸前の令嬢まで任されました  作者: 玖城イサ
第一章

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第83話 配給妨害

 


 昼前には、広場の空気が少し変わっていた。


 鍋の湯気は変わらない。

 柄杓の動きも止まっていない。

 それでも、人のざわめきの質だけが重くなる。


 レオンはその重さを、列の長さより先に感じ取った。


 鍋場の前へ押し寄せるほどではない。

 だが後ろ側で、わずかな文句が同じ向きに転がり始めている。


「遅い」

「順が回らない」

「子どもばかり先に通す」

「領都の人間が後だ」


 自然な不満でもある。


 だから厄介だった。


 露骨な嘘なら切りやすい。

 だが寒さと空腹が乗った文句は、少し押しただけで本物の怒りに変わる。


「殿下」

 とフィアナが低く呼んだ。


「見えてる」

 とレオンは答えた。


「二人だけではありません」

「後ろで拾って回しているのが、たぶん三、四人」


「だろうな」


 鍋の回転そのものは悪くない。

 マルタが前より速くよそい、カイルの列整理も崩れていない。

 セリスの控えも追いついている。


 なのに空気が悪い。


 つまり、場が悪いのではない。

 悪く見せる手が入っている。


 レオンはすぐにドルクを呼んだ。


「鍋を守れ」


「捕まえますか」

 ドルクの目が少し鋭くなる。


「まだだ」


「まだ?」


「今ここで腕を取れば、そっちが騒ぎになる」

「鍋をひっくり返される方が先だ」


 ドルクは一瞬だけ不満そうだった。

 だがすぐに理解した顔になる。


「分かりました」


「兵は鍋と薪の山、それから子どもの列の脇へ」

「押さえるな。倒させるな、だ」


「はい」


 ドルクが若手兵へ合図を飛ばす。

 動きは静かだった。

 それがいい。


 この場で槍の影が前へ出れば、不満はすぐ恐怖に変わる。


 レオンは次にセリスへ向いた。


「表を」


 彼女は聞き返さなかった。

 すぐに控え札箱の横から、今日の配分表を持ってくる。


 家数。

 優先区分。

 鍋一つあたりの想定杯数。

 午後便への持ち越し分。


 見せるために整えた紙だった。


「ヘルマンは」


「ここですぞ」

 老人は風よけ板の陰から現れた。

 最初から近くにいたらしい。


「札の飛び、重複、未処理」

 レオンは短く言う。


「読めばよろしいので?」


「必要になったらな」


 その間にも、後ろの声は少しずつ大きくなっていた。


「どうせ領主側の都合だろ」

「働いてる奴の方が腹減るんだぞ」

「村から来た連中の分まで見てるから遅いんだ」


 カイルが列の端を押し戻す。


「下がってください」

「鍋に近づくな」


 だがそこで別の男が言う。


「近づかなきゃ順番も来ねえ」


 その声に、何人かがつられる。


 レオンは表を持ったまま、一歩前へ出た。


「来る」

 とだけ言った。


 声は大きくない。

 それでも近くのざわめきが少し止まる。


「今日は三つに分けてる」

 彼は紙を上げた。

「子ども連れ、老人、その他」

「これは優遇じゃない。今夜死なせない順番だ」


 文句を言っていた男の一人が肩をいからせる。


「領都の男は後回しかよ」


「今日の午前はそうだ」

 レオンはそのまま返した。

「その代わり午後は働き手の列を早める」

「木材運びと鍋場の手伝いに入った家は、持ち帰り分も調整する」


 マルタが鍋の向こうから声を張る。


「聞こえたね!」

「働ける家に何も回さないとは誰も言ってないよ!」


 その通る声に、前の方の列が少しだけ落ち着く。


 だが後ろはまだざわついている。


 レオンは続けた。


「村便を切れば領都が楽になると思うなら、違う」

「村が止まれば春に戻る荷も減る」

「今ここで領都だけ温めても、次に来るのはもっと長い列だ」


「そんな先の話してる余裕があるか!」


 今度の声は、わざと大きかった。


 列の中ほどが揺れる。


 自然な苛立ちと、仕掛けた声が噛み合い始めていた。


 レオンは男を見た。


 そこでようやく、顔と場所が繋がった。


 北門脇の旧関所。

 荷改めの帳場があった頃、通行人から余計な銅貨を巻き上げていた連中の一人だ。

 役人そのものではないが、その周りで甘い汁を吸っていた顔だった。


 もう一人も似ている。

 旧関所が潰れた後、荷車止まりのたびに文句を広げていた男だ。


 ただの貧民ではない。

 止まった流れで食っていた側だ。


「家名を言え」

 とレオンは言った。


 男の顔が一瞬だけ止まる。


「……何?」


「家名か、持ち場か、所属だ」

「今日の控え札と照らす」


 セリスがすぐ横で紙を開いた。

 ヘルマンも別の束をめくる。


 準備が速い。


 男は言葉に詰まった。


 そこで別の場所から、また声が飛ぶ。


「そんな紙で腹は膨れねえ!」


「分かってる」

 とレオンは返す。

「だが紙がないと、鍋はすぐ壊れる」


 彼はマルタへ視線を向けた。


「今、残りは」


「一鍋目があと四十七」

 マルタが即答する。

「二鍋目は七十ちょい」

「午後分は別に残してる」


「器は」


「貸し出し分を回収しながら回してます」

 マルタは言った。

「足りないけど、止まってはいません」


「病人向けは」


「動かしてません」

 今度はセリス。

「村便の持ち出し分も、そのままです」


 レオンはその数字をそのまま口にした。


 曖昧な慰めにしない。

 今、何杯あるか。

 何をまだ崩していないか。

 数字をそのまま置く。


 それで完全に納得する者はいない。

 だが少なくとも、怒鳴った者の方が中身を持っていないことは見え始める。


 実際、先ほどの男はもう鍋より周囲を見ていた。

 自分に人が乗るかどうかを見ている顔だ。


 その時、子ども連れの列の脇で小さな押し合いが起きた。


 若い男が前へ出ようとして、カイルに止められたのだ。


「待てって言ってるだろ」

 カイルの声が少し上ずる。


「いつまでだ!」


「順番だ!」


「順番順番って、誰が決めた!」


 そこで、別の声が滑り込んだ。


「どうせ、あの女だろ」


 空気が変わった。


 鍋の音が、少し遠くなる。


「あの冷たい令嬢が、また領都を後回しにしてるんだ」

「商いを止めたのも、村ばかり見たのも、全部あの女だ」


 悪女。


 その言葉自体は出なかった。

 だが、皆その続きを知っている顔だった。


 フィアナが一歩だけ止まる。


 レオンは横目でそれを見た。


 ここまでは数字で押し返せると思っていた。

 配給表も、控え札も、現場責任者も出した。

 だが人は、腹が減ると昔から知っている悪評の方へ寄りやすい。


 分かりやすい敵は、数字より飲み込みやすい。


「黙れ」

 とドルクが低く言いかけた。


「待て」

 レオンは止める。


 怒鳴れば、今度はそこが火種になる。


 彼は口を開こうとした。


 だが、その前にフィアナが動いた。


 外套の裾が雪の上を払う。


 彼の横を通り過ぎ、鍋場と列のあいだの、いちばん声が届く場所へ出る。


 レオンは呼び止めなかった。


 止める理由が思いつかなかったのもある。

 たぶん、それ以上に、ここで前へ出る権利が彼女にはあると分かったからだ。


 鍋の湯気の向こうで、フィアナが顔を上げる。


 そして広場は、不思議なくらい静かになった。


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