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捨てられ第三王子は、信頼を取り戻したいだけなのに、崩壊寸前の辺境領と婚約破棄寸前の令嬢まで任されました  作者: 玖城イサ
第一章

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第82話 炊き出しの列

 

 まだ夜が残っているうちから、広場には湯気の匂いがあった。


 フィアナは外套の前を押さえながら、その白い息の中を歩いた。


 空は暗い。

 雪は止んでいる。

 だが地面の冷えはむしろ強い。


 鍋場の火だけが、そこに人を寄せていた。


 列は、もうできている。


 予想より早い。

 予想より長い。

 そして、予想より広い。


 貧しい者だけではなかった。


 ぼろ布に近い外套の女。

 子どもを抱いたまま列に立つ母親。

 手袋の指先が擦り切れた老人。


 それだけなら、フィアナも見慣れている。


 だが列の中には、前なら広場の鍋へ来なかった顔も混じっていた。


 没落した家臣筋の男。

 まだ仕立てのいい上着を着ているのに、頬がこけた女。

 閉じた工房の元職人らしい、硬い手をした中年。


 宿へ金を払えなくなった流れ者だけでなく、領都の中で静かに落ちてきた者たちまでいる。


 皆、目を上げない。


 寒いからだけではない。

 鍋の列に並ぶことそのものが、少し恥なのだ。


 フィアナはその空気を見て、胸の奥がひやりとした。


 思っていた以上に深い。


 領地は傷んでいると分かっていた。

 村が削れていることも、数字の上では見ていた。

 でもこうして列になると、それは別の顔を持つ。


 家柄も、職も、外套の質も、寒さの前では薄くなる。


「ベルクライン様」


 マルタが鍋の脇から呼んだ。


「木材置き場、昨日より少し寄せました」

「でも二つ目の鍋を立てるなら、火油は今日いっぱいが限度です」


「器は」

 とフィアナ。


「木工場から回ってきましたが、足りませんね」

 マルタは木箱を顎で示した。

「木椀は増えました。でも子ども連れが多いと、持ち帰る分で足が止まる」


 見ると、箱の中身はもう半分ほど空いている。

 まだ始まってもいないのに、予備の器を先に借りていく者が出ていた。


「木匙は?」


「数はある」

 マルタは即答した。

「でも二本、柄が緩い。乱暴に使えば抜けます」


「鍛冶場の修理上がりは」


「一つ来てます」

 とマルタ。

「もう一つは昼までに来るはずです」


 火の前では、女たちが豆を洗い、薄い肉と塩を入れ、柄杓の位置を確かめている。

 昨日のうちに手を決めていたから、動きに迷いは少ない。


 広場の端ではカイルが若い兵を並べていた。


「押さえるなよ」

「割り込ませるな、だ」

「鍋に近づきすぎるのも止めろ」


 言い方が少しぎこちない。

 だが悪くない。

 王族の前だから張っているのではなく、この場を本当に壊したくない顔だった。


 セリスは既に控え札の箱を開けている。

 羊皮紙に走り書きされた名と家数を、仮の区分ごとに分け直していた。


「領都分は三列にします」

 と彼女が言う。

「子ども連れ、老人、その他」


「村便との札は混ぜていませんね」

 とフィアナ。


「もちろん」

 セリスは顔を上げない。

「混ぜた瞬間に、今日が終わります」


 その通りだった。


 フィアナは列へ視線を戻す。


 前の方に、小さな工房の主だった男がいる。

 以前、領都の補修材で世話になったことがある。

 その隣には、冬前まで宿の手伝いをしていた娘。

 さらにその後ろには、かつて辺境伯家へ納めをしていた布商の妻らしい女も見えた。


 誰もこちらを見ない。


 見ないというより、見たくないのだろう。


 鍋を前にして、領主側と目を合わせるのは辛い。

 特に、それがフィアナであればなおさらだ。


 悪女。

 冷たい令嬢。

 領民より帳面を見る女。


 王都だけでなく、この領都でもそういう噂は流れてきた。

 否定する暇も、気力もなかった。

 現実の方が先だったからだ。


 だが今、列に並ぶ彼らを見ていると、その言葉が妙に空疎に思えた。


 冷たかろうが何だろうが、火がなければ死ぬ。

 順番がなければ鍋は倒れる。

 その現実だけは、嫌でも同じ場所へ落ちてくる。


「始めます」

 とマルタが声を上げた。


 柄杓が最初の鍋へ沈む。


 湯気が上がる。

 塩と豆の匂いが広がる。


 列が、目に見えて前へ重く動いた。


 先頭は子ども連れから通す。


 それで文句が出るかと思ったが、今のところ大きな声はない。

 皆、鍋の中身を見ている。

 腹と火の前では、最初の言葉は案外小さい。


 フィアナは鍋場の脇を歩きながら、人の流れを見る。


 器を持ってきた者。

 持ってこられなかった者。

 家の人数をうまく言えない老人。

 熱で赤くなった子どもを抱える母親。


 器の足りない者へ、マルタは木椀を回す。

 足りなくなれば、「食べ終えたら返しな」と短く言って別の箱へ印をつける。

 カイルは列の端を少しずつ直し、セリスは名を書き、消し、控え札を箱へ戻す。


 その一つずつが、この場をかろうじて支えていた。


 レオンは広場の中央寄りに立っていた。


 全部を自分でやるわけじゃない。

 でも姿は消さない。


 その立ち方が少し、この人らしいとフィアナは思った。

 前へ出すぎず、後ろへも下がらない。

 場が壊れそうなら止める位置にいる。


「ベルクライン様」


 呼ばれて振り向くと、列の中ほどの老女が小さく頭を下げた。


 礼というより、確認に近い。

 本当にあなたがここへ立っているのか、という目だ。


 フィアナは短く頷いた。


 老女はそれ以上何も言わず、器を抱え直した。


 大げさな感謝はいらない。

 今はまだ、その程度で十分だった。


 鍋が半分ほど回る頃には、列はさらに伸びていた。


 広場の角を曲がり、雪の積もった石段の方まで続いている。


「増えますね」

 とカイルが息を吐く。


「家で火を持てない方が多い」

 フィアナは答えた。

「明日以降は、もっと」


「はい」


 カイルは真面目に頷いたが、その顔は少し青かった。

 若い。

 こういう列の長さに慣れていないのだ。


 でも、それはたぶん彼だけではない。


 フィアナ自身も、ここまでとは思っていなかった。


 数字では見ていた。

 不足も、欠損も、逃亡も。

 それでも人が列になると、紙の上の傷とは違う重さを持つ。


 その時、彼女の目が列の後ろで止まった。


 二人の男がいる。


 外套は汚れているが、妙に寒さへ身を縮めていない。

 鍋より先に列そのものを見ている顔だった。


 しかも、声の置き方が少し不自然だ。


「今日は子どもばかり先か」


「領都の人間は後回しかよ」


 大きくない。

 だが、ちょうど耳へ入る大きさで落としている。


 フィアナは目を細めた。


 腹を空かせた人の不満ではある。

 だが、それだけではない匂いがした。


 彼女は何も言わず、少しだけ位置を変えた。

 別の角度から二人を見る。


 見覚えは薄い。

 ただ、こういう視線は知っている。


 食べるために並ぶ人間の目ではない。

 場が崩れる瞬間を待つ人間の目だ。


 フィアナはそのままレオンの方を見た。


 彼ももう気づいているらしかった。


 視線は列全体を見ている。

 だが、鍋の周りだけでなく、その外側の空気まで見ている顔だった。


 冬の列は長い。


 そして列が長いほど、火ではなく不満を煽りたい者にも都合がいい。


 フィアナは外套の前を押さえながら、小さく息を吐いた。


 この場は、ただ鍋を配れば終わるわけではない。


 火のそばには、火と同じくらい広がりやすいものがある。


 それは空腹より少し遅く、でも確実に人を動かす。


 列の奥で、さっきの男の一人が、わざとらしく肩をすくめた。


「このままだと、昼まで何も来ねえな」


 その言い方を聞いた瞬間、フィアナは確信した。


 こいつらは寒さに耐えているのではない。

 混乱が立つまで立っている。


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