第81話 最初の大雪
朝、窓の外が妙に明るかった。
レオンは目を開ける前に、音の薄さでそれを知った。
領都の朝は、貧しくても何かしらの音がある。
荷車の軋み。
戸を開ける音。
遠くの鍛冶場。
兵舎の足音。
だが今朝は、そのどれもが雪の下へ沈んでいた。
起き上がって窓を押し開けると、白かった。
屋根も、石畳も、城壁の上も、一晩で色を奪われている。
まだ降り続いてはいない。
だが空は重く低く、息を吐くたび白い。
「来ましたね」
後ろからセリスの声がした。
「見れば分かる」
とレオンは答えた。
「昨夜のうちに北道の伝令が一つ止まっています」
「谷向こうからの荷も、朝の時点では未着です」
「村側は」
「火の持たない家が増えていると」
今度はフィアナだった。
いつの間にか部屋へ入ってきている。
「特に、人数の少ない家と、年寄りだけの家です」
レオンは窓を閉めた。
嫌な予感が当たったというより、冬がようやく本気を出しただけだ。
ここまで整えてきた配給と治安が、ここから試される。
実務室へ入る頃には、もう人が揃っていた。
マルタ。
ドルク。
ヘルマン。
カイル。
それぞれが雪のついた外套を払っている。
部屋の真ん中の机には地図と控え札と、今朝届いたばかりの走り書きの報せが広がっていた。
「まず道です」
とドルクが口火を切る。
「北門を出た先で、荷車の車輪が二度埋まっています」
「兵を出せば通せますが、行き来は前よりずっと遅くなる」
「村の連絡は?」
とレオン。
カイルが答える。
「人だけなら通れます」
「でも荷を引くと、すぐ止まります」
「谷向こうの十四戸からも、火をまとめる場所が足りないと」
それは前に見た問題の続きだった。
小さく見えて、こういう時ほど人を殺す。
マルタが控え板を抱えたまま言う。
「配給所に来る人数も増えますよ」
「家の火が持たないなら、食う方を外へ寄せるしかない」
「しかも今は村だけではありません」
フィアナが地図の領都側を指で押さえる。
「領都の中でも、薪の底が見えている家が増えています」
「小さな工房、日雇い、住み込み口を失った者たち」
「没落した家臣筋も」
とセリスが補った。
「恥で表へ出なかっただけで、余裕があるわけではありません」
ヘルマンが鼻を鳴らす。
「冬は身分を選びませんな」
「だから面倒なんだよ」
とレオンは言った。
帳面の上では、村と領都、職人と家臣、老人と子どもに線を引ける。
だが寒さはそういう線を無視してくる。
彼は机の上の紙束を見た。
昨日までの予定には、まだ修理と整備が並んでいた。
鍛冶場の延長火。
倉庫の補修。
春へ向けた仮の準備。
全部必要だ。
でも、必要と優先は違う。
「切る」
とレオンは言った。
部屋の視線が集まる。
「冬の間は、生産より生存優先だ」
「今すぐ死なないための火と鍋と人を先に回す」
ドルクが腕を組む。
「修理班を止めますか」
「全部じゃない」
レオンは首を振る。
「屋根が抜ける家、井戸、倉の鍵、見張り。そこは残す」
「でもそれ以外は一度落とす」
フィアナが静かに頷いた。
「鍛冶場の火も絞ります」
「農具ではなく、鍋金具と暖炉回りを優先する形で」
「木工場は」
とレオン。
「長机と配布台、それに簡易の風よけならすぐ回せます」
フィアナは迷わず答えた。
「器もです。昨日話していた分、粗くても数を優先できます」
「木匙も要る」
とマルタがすぐに続けた。
「大鍋があっても、よそう先とよそう手が足りなきゃ意味がない」
「鉄鍋の修理は」
とレオン。
「今朝、鍛冶場へ人をやりました」
フィアナが答える。
「新しく打つより、底割れと取っ手の直しを優先させます」
「火油も底が見えますよ」
マルタが言った。
「夜明け前から火を起こすなら、思ったより食います」
「鍋場は二つまでだな」
レオンは即座に決める。
「三つ目を欲張って、全部ぬるくなる方がまずい」
マルタが頷く。
「それでいいです」
「まず温かいものを確実に回す」
レオンは机上の予定表を手に取った。
いくつかの項目に線を引く。
鍛冶場拡張、保留。
外壁補修の一部、保留。
街道脇の仮整備、最低限以外保留。
痛い。
だがここで迷えば、全部が中途半端になる。
「広場を使う」
レオンは言った。
「配給所の脇だけじゃ足りない」
「鍋を二つ。列は子どもと老人を先に。働き手は午後へ回す」
「文句は出ます」
とセリス。
「知ってる」
「領都民は、“なぜ村を優先した次は子どもなのか”と言います」
「村側は、“領都で鍋を炊く余裕があるなら、先にこっちへ回せ”と言うでしょう」
「それも知ってる」
レオンは短く返した。
だから順番が要る。
そしてその順番を、紙と現場の両方で見せる必要がある。
ヘルマンが古い指で机を叩く。
「なら、今日のうちに控え札を分け直しますか」
「やる」
とレオン。
「村便向け、領都炊き出し向け、緊急病人向け」
「ごちゃ混ぜのままだと、明日揉める」
カイルが少しだけ顔を強くした。
「見回りはどうしましょう」
「落とさない」
ドルクより先にレオンが答えた。
「こういう時ほど煽る奴が出る」
「鍋場、木材置き場、北門。そこは厚くする」
旧役人派の残り火は、完全には消えていない。
山を切っても、空気まではすぐ変わらない。
「殿下」
とフィアナが呼んだ。
「何だ」
「広場に鍋を立てるなら、私も出ます」
「分かってる」
「……驚かれないのですね」
「今さら君が部屋の奥で待つとは思ってない」
フィアナは一拍だけ黙った。
それから、ほんの少しだけ目元の力を抜く。
「では、遠慮なく」
会議はそこから速かった。
マルタが鍋場の手を集める。
カイルが列整理の若手を選ぶ。
ドルクが鍋場と木材置き場の見張りを切り分ける。
セリスが控え札の形式を揃え、ヘルマンが仮名簿との照合順を作る。
一つずつ紙に落ちる。
外へ出ると、雪は朝より少し締まっていた。
石畳を踏むたび、きしりと硬い音がする。
広場では、もう長机が運び込まれ始めていた。
鍋も来た。
木材も寄せられている。
誰も笑ってはいない。
でも、止まってもいない。
レオンは白くなった広場を見渡した。
今日やるべきことは多い。
明日はもっと多い。
この冬が楽になることは、たぶんない。
それでも、動かしたまま迎えるしかない。
夕方近く、最初の鍋場の形がようやく見えた。
風よけ板。
薪の山。
控え札の箱。
簡易の列柵。
器を重ねた木箱。
修理上がりの鍋を置く台。
完璧にはほど遠い。
だが、前よりはましだった。
「夜明け前から始めます」
とマルタが言う。
「火を早く入れないと、並ぶ人の方が先に冷えます」
「頼む」
とレオン。
「頼まれなくてもやりますよ」
マルタは肩をすくめた。
「ここで止めたら、明日の方が面倒ですからね」
その言い方は、この領地らしくて少しよかった。
日が落ちる頃には、広場の端にもう人影があった。
まだ鍋は空だ。
火も小さい。
それでも、待つために来ている。
一人。
二人。
三人。
外套をきつく合わせた女。
腕を抱いた老人。
痩せた少年。
列と呼ぶにはまだ短い。
だが、明日にはそれが伸びる。
レオンは雪の残る石畳の上で、その影をしばらく見ていた。
冬が来たのだと思う。
戦より静かで、でも確実に人を削るものが、ようやく領都の中へ入り込んできた。
そして翌朝、その列は彼の予想よりずっと長くなっていた。




