第79話 フィアナの視線
火が落ち着いたあとの煮炊き場は、少しだけ静かだった。
騒ぎが終わった後というより、ようやく一息つける場所になった静けさだ。
鍋の縁にはまだ熱が残り、木桶の底には豆の皮が張りついている。
薄い煙が上へ逃げ、空気の冷たさにすぐ削られていく。
フィアナは鍋場の脇に立ち、使い終えた器の数を見ていた。
三十七。
途中で追加。
遅れて来た分が五。
数字としては小さい。
でも、ここへ並んだ顔を思えば軽くはない。
彼女は帳面へ目を落とす。
木材の減り。
火油の残り。
鍋当番の交代。
見なければならないものは多い。
だから本来なら、さっきの小さな場面に気を取られている余裕はない。
それでも、目に残っていた。
幼い子どもがレオンの裾を引き、短く礼を言った場面。
そのあとで、彼が少しだけ返事に困っていた顔。
王都で見てきた男たちは、ああいう時もっと上手く振る舞う。
優しい言葉を選ぶ。
聞こえのいい励ましを置く。
周囲にも届くように笑う。
そういうことに慣れている。
でもレオンは違った。
上手い言葉を持っていない。
あるいは持っていても、すぐには出てこない。
代わりに「熱いから急ぐなよ」と返した。
不格好だ。
王族らしくもない。
けれど、妙に本物だった。
「お嬢様」
振り向くと、村から手伝いに出ていた女が器を抱えていた。
「この器、明日も使いますか」
「使います」
フィアナはすぐ答える。
「割れがないものだけ分けてください」
「はい」
女は少し迷ってから、続けた。
「……あの方、本当に明日も来るんですか」
誰のことかは分かる。
レオンだ。
フィアナは器の山を見たまま言った。
「毎日ここに立つとは限りません」
「でも回すのはやめないでしょう」
女は少しだけ驚いた顔をした。
「信じてるんですね」
その言い方に、フィアナは一瞬だけ返事を失った。
信じている。
その言葉はまだ、自分の中で少し重い。
最初に会った時、彼は王都から来た第三王子でしかなかった。
役人たちが取り繕う会議室に、また一人、事情を知らない王族が増えたと思った。
数字も現場も知らず、最後は綺麗な言葉だけ残して去る側。
そういう分類に入るはずの相手だった。
だが実際のレオンは、最初から別のところを見ていた。
空の倉庫を先に見た。
帳簿の継ぎ目を見た。
名簿の穴を見た。
足りない荷を、足りないまま届かせる順番を作った。
今回もそうだ。
荷が着いたこと自体は大きい。
でも彼が本当に変えたのは、善意ではなく流れだった。
門で止まっていたもの。
道で抜かれていたもの。
村へ届く前に死んでいた順番。
そこを切り直したから、子どもの器に湯気が入った。
もし彼がただ優しいだけの王子なら、フィアナはここまで見方を変えなかっただろうと思う。
優しいだけでは領地は守れない。
正しいだけでも足りない。
必要なのは、嫌な現実を切らずに回す人間だ。
そして彼は、そこから逃げない。
逃げないくせに、自分を英雄みたいには扱わない。
さっき子どもに礼を言われたあとも、すぐ木材と鍋の数へ話を戻していた。
あれが演技なら、ずいぶん手が込んでいる。
でもたぶん違う。
本当にそういう人間なのだ。
「お嬢様?」
女が不安そうにもう一度呼ぶ。
フィアナは小さく首を振った。
「……ええ。今は、前より」
前より。
それが精一杯だった。
信じ切っているわけではない。
この領地は何度も裏切られてきた。
制度は一度作っただけでは回らない。
冬が深くなれば、また別の穴が開く。
でも、それでも。
今のレオンは“利用できる王族”ではなくなりつつある。
そのことを、フィアナはもう認めざるを得なかった。
彼は王都の飾りではない。
名前だけの名代でもない。
少なくとも今のフェルドでは、ちゃんと責任の重さを持って立っている。
それが分かると、胸の奥に少しだけ怖さも出た。
信じるというのは、結局そこを渡すことでもある。
期待しない方が傷は浅い。
それをフィアナは嫌というほど知っている。
王都でも。
婚約話でも。
父の代わりに実務へ立った時も。
期待して、外れた時の痛みは大きい。
だから彼女は、なるべく人へ預けないようにしてきた。
好かれることも、分かってもらうことも、最初から捨てる方が楽だった。
でも今、少しだけその前提が揺らいでいる。
煮炊き場の向こうで、レオンがカイルと何か話していた。
大きく身振りを使うでもない。
声を張るでもない。
それでも相手はちゃんと聞いて、すぐ動く。
最初の頃なら考えにくかった。
ドルクも、カイルも、マルタも、前より自然に彼の指示を受ける。
それは身分に従っているだけではない。
少しずつ、この人間が回すと見ているからだ。
フィアナはそこで、ふと視線を下ろした。
自分も同じなのかもしれないと思った。
まだ全面的に預ける気はない。
預けるべきでもない。
けれど、一人で全部背負う前提だけは、少しずつ崩れている。
「お嬢様」
今度はマルタだった。
控え板を抱え、湯気の抜けた鍋を見ている。
「明日、谷向こうにも同じ形を回すなら、手の足りる人をもう二人借りたいです」
「分かりました」
フィアナはすぐ答える。
「領都側の配給所から回します」
「殿下には」
「私から話します」
それを言ってから、マルタが少しだけ笑った。
「前より自然ですね」
「何がですか」
「殿下に“私から話します”って仰るのが」
フィアナは一瞬、言葉に詰まる。
たしかに、以前の自分ならそうは言わなかったかもしれない。
王族相手には、もっと距離を取っていた。
報告か、牽制か、そのどちらかだった。
今は少し違う。
連絡。
調整。
確認。
同じ側の仕事として考えている自分がいる。
「……仕事です」
とフィアナは短く返した。
マルタは「ええ」とだけ言った。
でも目は、少し面白がっていた。
日が落ちる。
煮炊き場の火も小さくなる。
その最後の灯りの向こうで、レオンがこちらへ振り向いた。
視線が合う。
「明日の手、足りるか」
と彼が聞く。
「二人追加で回します」
フィアナは答える。
「谷向こうは鍋場を広げます」
「分かった」
それだけだった。
甘い言葉もない。
大げさな労いもない。
でも、その短いやり取りが妙にしっくり来た。
話が通じる。
負担を分けられる。
次を前提にできる。
それは、フィアナにとってずっと希少なことだった。
彼女は器の積まれた台を見た。
空になった鍋を見た。
もう湯気の消えかけた火を見た。
小さい。
本当に小さい。
それでも今日、この領地で何かが少しだけ変わった。
そしてその変化は、彼女自身の中にも及び始めていた。
夜、領都へ戻る道すがら。
フィアナは冷たい空を見上げた。
雲が低い。
本格的な雪も、そう遠くはないだろう。
冬は待ってくれない。
試されるのはこれからだ。
それでも彼女は、前より少しだけ静かな気持ちで歩いていた。
信じてもいい相手かもしれない。
まだ、その言葉を口にはしない。
でも胸の奥で、確かに形になり始めていた。




