表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
捨てられ第三王子は、信頼を取り戻したいだけなのに、崩壊寸前の辺境領と婚約破棄寸前の令嬢まで任されました  作者: 玖城イサ
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
78/108

第78話 子どもの礼

 


 三日後、領都の外れに臨時の煮炊き場が作られた。


 村へ回した乾豆の一部と、領都に残した配給分。

 それに、先に届いていた塩と少しの干し肉を合わせる。

 豪勢ではない。

 でも、空腹を遅らせるだけの湯気にはなる。


 本格的な冬の炊き出しにはまだ早い。

 けれど、各村も領都も、火をまとめる場所を少しずつ増やしておかないと、雪が来た時に手が足りなくなる。


 だから今は試す。


 どのくらい並ぶか。

 誰が仕切れるか。

 火油は持つか。

 鍋は足りるか。


 レオンは煮炊き場の端に立って、その様子を見ていた。


 大鍋が二つ。

 マルタが段取りを見ている。

 手伝いに入った女たちが豆を洗い、火を見て、薄い粥に近い汁を整える。


 列は、思ったより長かった。


 貧しい者だけではない。

 服はまだましでも、顔色の悪い者が多い。

 寒さが深くなる前から、もう余裕がないのだと分かる。


「思った以上に来ますね」

 とカイルが言った。


「来るだろ」

 レオンは答える。

「家で火を持てない方が増えてる」


「はい」


 列の先頭は年寄りと子どもを優先した。

 それだけで後ろから文句が出るかと思ったが、今のところはない。

 みな、鍋の中身を見る方に意識が向いていた。


 マルタが大きな柄杓を動かす。


「慌てなくていいよ」

「鍋はすぐ空にしない」

「順に来な」


 声がよく通る。

 こういう場を回すのに向いた声だ。


 レオンは列をざっと見た。


 まだ表立った混乱はない。

 だが、人数が増えれば変わる。

 今日うまくいっても、次も同じとは限らない。


「殿下」

 とフィアナが隣へ来る。


「木材置き場、少し狭いです」


「見た」


「明日以降、鍋をもう一つ増やすなら、人の導線も切り直す必要があります」


「分かってる」


 二人とも、鍋の前の感傷より先にそちらを見る。


 それでいい。

 この場を続けるには、その方が大事だ。


 ただ、湯気の匂いは思っていたより現実だった。


 乾豆の匂い。

 塩の匂い。

 薄い肉の匂い。


 前世で会社帰りに寄った安い定食屋とも違う。

 もっと切実で、もっと静かな匂いだった。


 配り始めてしばらくすると、列の後ろから子どもの泣き声がした。


 ぐずるような、小さな声だ。


 母親らしい女が困った顔をしている。

 腕の中の小さな子は眠そうで、でも腹も減っているらしい。


「先に通して」

 とレオンはカイルへ言った。


「はい」


 カイルが列を少し割り、母子を前へ通す。

 それに大きな不満は出なかった。

 誰もが事情を見て分かる顔をしていた。


 マルタが柔らかいところを多めによそる。


「熱いから、少し冷ましてからね」


 母親は何度も頭を下げた。

 その腕の中の子は、まだ事情なんて分からない顔で、器から立つ湯気を見ている。


 レオンはそのまま視線を戻しかけた。


 戻しかけて、止まる。


 別の小さな手が、彼の上着の裾を軽く引いたからだ。


 見ると、七つか八つくらいの子どもが立っていた。

 痩せてはいるが、目はまだ死んでいない。


 たぶん、さっきから遠巻きに荷や鍋を見ていた子の一人だ。


「……なんだ」


 子どもは少しだけためらった。


 それから、小さな声で言った。


「ありがとう」


 たったそれだけだった。


 大げさな礼でもない。

 周りが聞きつけるほど大きくもない。

 子どもが、思いついたまま置いていくみたいな一言。


 でも、その短さが妙に重かった。


 レオンはすぐに返事ができなかった。


 前世で礼を言われたことがないわけじゃない。

 仕事でも、助かったと頭を下げられたことはある。


 でもそれは、だいたい次の修正や別の火消しと一緒に来た。

 回して当然の仕事の中で、感謝はすぐ別の締切に飲まれる。


 今のは違った。


 目の前の火と湯気と空腹に、まっすぐ繋がった礼だった。


 子どもは返事を待たない。

 言っただけで満足したのか、そのまま母親の方へ戻ろうとする。


 レオンはようやく口を開いた。


「……熱いから、急ぐなよ」


 自分でも妙な返事だと思った。


 子どもは一瞬きょとんとして、それから少しだけ笑った。

 うまく笑えてはいない。

 でも、ちゃんと子どもの顔だった。


 それが見えた瞬間、胸の奥が少しだけ詰まる。


 フィアナが横でそのやり取りを見ていた。

 何も言わない。


 マルタだけが、少し離れた場所で口元を緩めた。


「殿下も、案外そういう顔をなさるんですね」


「どういう」


「返し方に困ってる顔です」


 レオンは無言で鍋の方を見た。

 カイルが笑いをこらえている気配がする。


「仕事を増やすな」

 とだけ言うと、カイルが慌てて姿勢を正した。


 でも空気は少しだけ柔らかくなった。


 列はまだ長い。

 鍋もまだ二つしかない。

 不足は全然埋まっていない。


 それでも今、ちゃんと火がある。

 器に湯気がある。

 子どもが礼を言えるだけの何かが届いている。


 その事実は、思ったより響いた。


 レオンは視線を落として、自分の指先を軽く握った。


 感動している場合じゃない。

 次の便。

 次の鍋。

 次の木材。


 やることは山ほどある。


 それでも、今の一言は残るだろうと思った。


 残ってしまうだろうと思った。


 日が少し傾き、鍋の底が見え始める。

 マルタがすぐに次の分量を計算し始める。


「明日は豆をもう少し増やします」

「その代わり、塩は少し絞ります」


「火油は?」

 とレオン。


「持ちます」

 フィアナが答える。

「ただし二日ごとです」


「分かった」


 すぐ仕事へ戻る。

 戻れるのが、自分らしいとも思う。


 でもその前に、レオンは一度だけ列の後ろを見た。


 さっきの子どもが、器を両手で持って湯気を見ていた。

 まだ熱くて飲めないらしい。

 だから待っている。


 待てるものがある。

 その小ささが、妙に目に残った。


 夕方、片づけに入る頃。

 マルタが器を重ねながらぽつりと言った。


「礼を言われるのは、慣れておいた方がいいですよ」


「慣れる気はない」


「そうですか」

 マルタは肩をすくめる。

「でも、今日のは覚えておいた方がいい」


 レオンは返事をしなかった。


 覚えようと思わなくても、たぶん忘れない。


 問題はまだ終わらない。

 むしろ冬はこれからだ。


 それでも、この領地で初めて受け取った種類の礼が、夕方の冷えの中で妙に温かく残っていた。


 そして、その場面を見ていたのは、レオンだけではなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ