第77話 届いた荷
北道の村へ入る頃には、昼の光がもう少し傾き始めていた。
雪はまだ降っていない。
けれど風は冷たい。
道の脇に残る土は固く、踏むたび乾いた音がした。
先頭の荷車がゆっくり坂を上がる。
後ろには巡回班がつく。
数は多くない。
それでも、前までとは違った。
止まった荷ではない。
届く前提で動いている荷だった。
レオンは荷車の横を歩きながら、村口の様子を見た。
老人が三人。
女が二人。
子どもが何人か。
少し離れた場所に、痩せた犬。
誰も駆け寄っては来ない。
喜びもしない。
まず疑う顔だった。
当然だと思う。
これまで何度も、来るはずのものが来なかった。
届いたはずの記録だけが残り、袋は途中で消えた。
そういう冬前を何度もやってきた領地で、荷車が見えたからといってすぐ信じられる方がおかしい。
村の年寄りが一歩だけ前へ出た。
「……殿下」
以前、視察で会った老人だった。
名は聞いたはずだが、今は思い出さない。
思い出さなくても、顔は覚えている。
領主側への不信を隠さなかった目だ。
「荷だ」
とレオンは言った。
「塩、乾豆、火油、少し布」
老人は荷台より先に、護衛の兵を見た。
「今度は、ここで数えてもよろしいので」
とフィアナが静かに言う。
「着いてから帳面を作るのではなく、着いた場で切ります」
村人たちの空気が少しだけ動く。
今までは違ったのだろう。
倉で記録され、関所で記録され、村には結果だけ渡る。
だから途中を疑っても、どこで消えたかが曖昧になる。
レオンは荷札を受け取った。
「ここで開ける」
マルタがすぐに控え板を構える。
カイルが兵二人へ合図し、荷縄を外させた。
樽の蓋が開く。
袋が下ろされる。
塩袋は六。
乾豆は四。
火油の小樽が二。
布がひと巻き。
量としては多くない。
この村だけで冬を越せるほどでもない。
でもゼロじゃない。
途中で消えていない。
その差は大きかった。
老人の後ろで、女のひとりが小さく呟いた。
「本当にある……」
それが、妙に生々しかった。
ある。
届いた。
その確認が驚きになるくらい、この領地の流れは壊れていた。
レオンは袋の口を兵に見せさせた。
「塩は前に渡った粗塩より細かい」
「だから量は少なく見えても、使い方は少し持つ」
女たちの目が動く。
生活に近い話だからだろう。
フィアナが続ける。
「乾豆は炊き出しに回す分を先に分けてください」
「各戸へそのまま散らすと、弱っている家ほど火を持ちません」
村の女たちが顔を見合わせた。
反発ではなく、考える顔だった。
言われたことが生活の形に落ちる時の顔だ。
老人がようやく荷台へ近づく。
しわだらけの指で、塩袋の縫い目を触った。
少しだけためらってから、乾豆も見た。
「……途中で抜かれておらぬ」
「今のところはな」
とレオンが答える。
「今のところ」
老人は繰り返した。
「次もある」
レオンは言った。
「ただし、道が安定するまでは一度に大きく流さない」
「少しずつ回す」
老人はすぐには頷かなかった。
「前も、そういう話は聞いた」
「知ってる」
「今度は違うと、どう信じろと」
言い方はきつくない。
ただ、本当にそう思っている声だった。
レオンは荷台を見た。
それから村の外れに立つ、煙の薄い家々を見た。
「信じなくていい」
老人が眉を動かす。
「今日の分を見ろ」
「次が来るかも見ろ」
「それで足りなければ、また疑えばいい」
綺麗な言い方ではない。
でも今のこの村に必要なのは、誓いより回数だ。
老人はしばらく黙ったあと、小さく息を吐いた。
「王族の口から、そういう言い方を聞くとは思いませなんだ」
「俺も、あんまり王族らしい話は得意じゃない」
横でカイルが少しだけ口元を動かした。
笑いをこらえたのかもしれない。
空気がほんの少し緩む。
その時、村の奥から別の男が出てきた。
肩をいからせた若い男だ。
「待て」
彼は荷台を見るなり言った。
「これだけか」
来ると思っていた声だった。
「これだけ、です」
フィアナが先に答える。
「でも今回は、着いています」
「足りないことに変わりはないだろ」
「足りない」
レオンが言う。
「だから一度に約束しない」
若い男は露骨に不満そうな顔をした。
「王都の方ってのは、いつもそうだ」
「足りない物を足りないまま持ってきて、感謝しろみたいな顔をする」
周囲が少し張る。
カイルが前へ出かける。
だがレオンが手で止めた。
「感謝しなくていい」
レオンは若い男を見る。
「ただ、今足りないからって、途中で消える方がましかどうかは別だ」
男は黙る。
「全部を今日埋めるのは無理だ」
「でも途中で抜かれない形に変えないと、次も来ない」
「今やってるのはそっちだ」
言い返しはなかった。
納得したわけじゃない。
でも、ぶつける相手が理屈で返してきた時の沈黙だった。
フィアナが村の女たちへ向き直る。
「火油はまとめて持ってください」
「各戸に散らすより、共有の煮炊き場を優先します」
「夜に灯りを増やしすぎないように」
村の年嵩の女が頷いた。
「分かりました」
返事がすぐ返る。
前からフィアナがこういう話をしてきたからだろう。
レオンはそこを見ていた。
自分が持ってきた荷だけじゃない。
フィアナが現地で積んできた説明の信用も、この場を支えている。
荷下ろしが始まる。
袋を運ぶ肩。
小樽を受け取る手。
控え板へ刻まれる印。
一つずつは小さい。
でも、その一つずつがようやく噛み合っていた。
村の子どもたちは、まだ遠巻きに見ている。
前に視察へ来た時は、もっと警戒が濃かった気がする。
今は少しだけ近い。
それだけでも前進だった。
老人が控え板へ印を置く。
フィアナがそれを確認し、マルタが写しを渡す。
「村にも残します」
とマルタが言う。
「次の便と照らしてください」
老人は紙を受け取り、何度か見直した。
「こっちにも残すのか」
「残します」
フィアナが答える。
「領都だけに残す形は、もう減らします」
それでまた空気が少し変わる。
紙が残る。
村にも残る。
それは責任の形が少し変わるということだ。
若い男はまだ不満の顔をしていたが、もうさっきほど強くは言わなかった。
代わりに塩袋を肩へ担ぎ、黙って運び始める。
反発したままでも手は貸す。
それで十分だった。
レオンは荷台の残りを見た。
多くはない。
本当に多くはない。
でも、ここまで届いた。
その事実が、道の先にちゃんと置かれている。
前なら当たり前のはずのことが、今は少しだけ誇らしい。
そう感じる自分に、彼は内心で少し驚いた。
帰り際、老人が呼び止めた。
「殿下」
「何だ」
「……次も、来ますかな」
まだ信じてはいない声だった。
でも、最初から突き放す声でもなかった。
レオンは村口の外、来たばかりの道を一度だけ見た。
「来させる」
短い返事だった。
それで老人は何も言わなかった。
ただ、小さく頷いた。
完全な信用じゃない。
それでも前に進んだ感じはあった。
荷を下ろした荷車は、少しだけ軽くなって村を出る。
帰り道、カイルがぽつりと言った。
「前より、目が違いましたね」
「誰の」
「村の人たちのです」
レオンはすぐには答えなかった。
違っていた。
でも、まだ薄い。
その薄さが、むしろ本物だった。
いきなり歓声なんていらない。
次も届くかどうかを見る目の方が、ずっと信用できる。
そしてその“次”が、もうこちらを待っていた。
領都へ戻る途中、別の村から伝令が来る。
「谷向こうの集落で、火をまとめる場所が足りません」
小さな問題だった。
でも、冬前にはそういう小さな問題の方が人を殺す。
レオンは足を止めないまま聞いた。
「人数は」
「十四戸です」
「分かった」
彼は短く答える。
「戻ったら木材と鉄鍋の数を見る」
荷が届いた。
それで終わりじゃない。
届いた先を、次に繋げる必要がある。
その面倒さを、彼は嫌いじゃなかった。
嫌いじゃないまま、また一つ、次の課題が増えていく。




