第65話 偽の荷
夜明け前の倉庫前は、吐く息だけが白かった。
空はまだ暗い。
石畳は凍え、車輪の鉄が触れるたびに小さく硬い音を立てる。
並んだ荷車は二台。
前回よりさらに小さい。
見た目だけなら、急ぎの小口便だ。
だが今朝の本命は、そっちではなかった。
レオンは荷台を見上げた。
樽。
袋。
縄。
干し草。
遠目には、それなりに積んであるように見える。
けれど中身は薄い。
樽のいくつかには石と藁。
袋には古布と湿らせた干し草。
奪ってから気づく程度には本物らしいが、領地の命綱になる量ではない。
「積み替え、終わりました」
マルタが控え板を抱えたまま言った。
「表向きの荷札も、昨日のうちに合わせています」
「関所向け控えと倉向け控え、どちらで見ても不自然はありません」
「いい」
レオンは頷いた。
その横でヘルマンが鼻を鳴らす。
「不自然がない、というのが一番気持ち悪いですな」
「だから使うんだろ」
とレオンは返した。
老人は渋い顔のまま黙った。
本物の荷は、すでに別に動いている。
領都の西寄り、小さな裏門。
知っているのはレオン、フィアナ、セリス、ドルク、それにマルタとヘルマンの一部だけだ。
荷も細かく分けた。
一度に失えば痛い物を、最初からまとめない。
完璧な守りではない。
だが、今のフェルドにできる現実的な手だった。
ノアが深緑の外套を寄せながら近づいてくる。
「商売を始めた頃に戻った気分ですよ」
「まともな荷より、空の樽を本物らしく見せる方が難しい」
「そっちは得意そうだな」
「失礼ですね」
ノアは口元だけで笑う。
「得意なのは、損を小さく見せる方です」
「今朝はその腕を借りる」
「料金が上がりますよ」
軽口の形だった。
だが声は硬い。
囮と分かっていても、人が乗る以上は矢が飛ぶ。
その重さを、ノアも分かっている。
ドルクが最後の確認を終えて戻ってきた。
「御者は二人とも逃げ足のあるやつです」
「後ろに乗るのも四人だけ」
「合図が来たら荷より自分の足を優先するよう、念押ししました」
「いい」
「ただ」
ドルクは少し声を落とした。
「北門の古参ども、今朝は妙に静かです」
フィアナがその言葉を拾う。
「静かな方が、むしろ自然かもしれません」
「昨夜こちらが見せた紙を、もう飲み込んでいるのでしょう」
レオンは門の方角を見た。
旧関所責任者イェルク。
門番の古参。
それに、巡回兵側へだけ落とした別の時刻。
昨夜ばらまいた三枚の嘘は、どれも少しずつ違う。
だから今朝見るべきは、荷車そのものより、人の顔と動きだった。
「出す」
とレオンは言った。
「遅らせると、逆に勘づかれる」
ノアが御者へ合図する。
車輪が静かに回り出す。
荷車は北門へ向かった。
見送りは少ない。
歓声もない。
ただ、倉庫前の数人が黙って背を見ているだけだ。
それでよかった。
この領地では、派手に送り出される便ほど信用が薄い。
大事なのは出発の絵ではなく、帰ってくる車輪の音だ。
北門前に着くと、イェルクがいた。
寒そうに外套を締めている。
顔色は悪くない。
悪くないのが、かえって嫌だった。
「朝が早うございますな、殿下」
「荷は時間を選ばない」
とレオンは答える。
「まことに」
イェルクは薄く頭を下げる。
「北道はまだ荒れきっておりません。今日なら悪くはないでしょう」
言い方は自然だった。
だが、“北道”と先に言った。
昨夜、関所側へ見せた紙には確かに北門とあった。
巡回兵側へ落とした方は、谷手前で合流する別案だ。
今の一言だけでは断定できない。
それでも、耳に残す価値はある。
フィアナも気づいたらしい。
横顔は動かさないまま、ほんのわずかに目を細めた。
門が開く。
荷車が外へ出る。
その時、レオンは視線の端で一つの影を捉えた。
門脇の物陰。
荷車が抜ける瞬間だけ、若い門番のひとりが後ろへ下がった。
そのまま通用路の方へ消える。
ドルクも同じものを見たらしい。
「行きましたね」
「追うな」
レオンは短く言った。
「今は荷の方だ」
影を追えば、こちらが気づいたことを知らせる。
今はまだ、向こうに“噛ませた”と思わせた方がいい。
荷車は北門の外で小さく揺れながら進んでいく。
先頭の御者はわざと少し頼りなく見せていた。
荷も重すぎない。
襲う側から見れば、十分に手頃な獲物だ。
ノアが隣で低く言う。
「嫌な話ですが」
「食いつきやすい見た目です」
「だから出した」
「ええ」
ノアは乾いた息を吐く。
「ええ、分かっています」
レオンは門の外を見たまま考える。
本命は別で動いている。
こっちは囮だ。
理屈ではそうだ。
それでも、人が乗っている。
もし読み違えれば、囮で済まなくなる。
前世なら、たぶんこの手の決定は嫌っていた。
危険のある役を切るのが苦手だった。
誰かに頼る代わりに、自分が抱える方を選んでいた。
でも今は、それでは領地が死ぬ。
全部を守ろうとして全部失うより、守る順番を決めるしかない。
「殿下」
フィアナが静かに呼ぶ。
「何だ」
「西門からの本命便、先ほど無事に抜けたと」
レオンは小さく息を吐いた。
「なら、まず一つは通ったか」
「はい」
フィアナの声も少しだけ緩む。
「ただし、向こうがこちらの気づかぬ線を持っていれば、まだ安心はできません」
「知ってる」
だからこそ、今朝の偽の荷が要る。
本命を守るためだけじゃない。
この領地の中で、誰がどこへ耳を伸ばしているのか。
その線を掴むための荷だ。
やがて、北門の外れから一羽の鳥が飛び立った。
ただの鳥かもしれない。
でも、タイミングが良すぎた。
レオンは目で追わなかった。
見えたものを全部追うのは、焦っている側の動きだ。
今は待つ。
噛ませて、流れを見る。
荷車はもう、朝靄の向こうへ消えかけていた。
その時、ドルクがぽつりと言った。
「今朝は山の方も、だいぶ静かですよ」
静かすぎる。
それは、何もいない時より嫌な静けさだった。




