第60話 試験便出発
出発は、まだ空が暗いうちに行った。
朝というより、夜明け前だ。
雪が降ってもおかしくない色の空。
石畳は凍えていて、吐く息が白く長い。
倉庫前に並んだ荷車は三台。
大きくはない。
むしろ拍子抜けするほど小さい。
でも今のフェルドには、その小ささの方が現実だった。
干し草。
乾豆。
保存布。
少量の塩。
荷札が下がり、控えは倉、役所、配給所の三本に分けられている。
ヘルマンの字は相変わらず細かい。
だが見落としはない。
マルタが袋数を最後まで確認していた。
「一号車、干し草十六束、乾豆八袋」
「二号車、保存布三巻、塩二袋」
「三号車は戻りの余地を残しています」
「いい」
とレオンは頷く。
ノアは車輪の脇で御者と短く話していた。
深緑の外套の裾に霜がついている。
昨日より口数が少ない。
自分でも、この一便の重さが分かっているのだろう。
「思ったより静かですね」
とノアが言う。
「見世物にしたくないからな」
とレオンは答える。
「賢明です」
ドルクが周囲を見て戻ってくる。
「北門までは問題なし」
「見張りも散らしました」
「ただ、門の外まで人の目を消すのは無理です」
「ゼロにはできない」
レオンは言う。
「知る数を減らすだけでいい」
フィアナが受領前の紙へ最後の印を入れた。
「路線は予定通り二筋」
「確認所は二箇所」
「日没前に中継で一度、戻り報告を取ります」
「着かなければ、そこで切り替えます」
ノアは真顔で頷く。
「分かりました」
「俺も最初から全部は信じません」
「その方が助かる」
正直でいい。
こういう場で綺麗事を言う人間より、ずっと扱いやすい。
荷積みが終わる頃には、倉庫前の遠巻きに人影が増えていた。
炊き出しに並んでいた女。
見張り帰りの兵。
役所の下働き。
領都外れの男たち。
誰も大声は出さない。
だが見ている。
本当に荷が出るのか。
紙の話で終わらないのか。
その確認の顔だった。
マルタが小さく言う。
「これが通れば、外れ区画の寒い家をもう少し持たせられます」
「布も、仕切りも、粥場も」
「通せばな」
とレオンは返す。
「はい」
マルタも頷いた。
「だから通してください」
命令ではない。
でも、現場の願いとしては十分に重い。
ヘルマンが帳面を閉じる。
「出せる形にはなりました」
「後は、帰ってくるかどうかですな」
「縁起でもないことを」
とドルクが言う。
「事実です」
老人は平然としている。
「帰らぬ便は、どれほど立派な出立でも帳面では赤です」
セリスが小さく息をついた。
「朝から容赦がありませんね」
「老い先短いので、遠慮を減らしております」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、本当に少しだけだ。
レオンは荷車を見た。
三台。
小さい。
けれど、ここから先へ伸びる最初の線だった。
「行こう」
と彼は言う。
御者が綱を取り、車輪がゆっくり動き出す。
凍った石を軋ませる音が、やけに大きく聞こえた。
遠巻きの人々が道を空ける。
その中に、昨日の会談に来ていた年嵩の商人が二人いた。
乗らなかった側だ。
わざわざ朝の暗いうちから見に来ている。
口約束ではなく、実際に出るか。
そこまで見てから判断するつもりなのだろう。
「見ていますね」
セリスが低く言う。
「見せるために出してる部分もある」
とレオンは答えた。
「見せたくない相手まで見るのが面倒なだけで」
フィアナは車列の背を見たまま言う。
「これで通れば、領都の商人たちも計算を変えます」
「失敗すれば?」
「様子見が、見切りに戻るでしょう」
簡潔だ。
でも、その通りだった。
ノアの車列が北門へ向かう。
門を抜ける直前、彼は一度だけ振り返り、軽く手を上げた。
レオンも短く返す。
味方ではない。
まだそこまでは行っていない。
だが、敵でもない。
今はその位置で十分だった。
車列が門を抜ける。
見えなくなる。
残るのは冷えた朝と、静かな倉庫前だけだ。
その静けさの中で、領都外れの女がぽつりと呟いた。
「……本当に出た」
大げさな歓声はない。
拍手もない。
ただ、その一言だけが妙に残る。
紙より先に、車輪を信じる。
そういう土地だ。
だからこそ、今の一言には意味があった。
ドルクが低く言う。
「知ってる顔はかなり絞りました」
「それでも、荷を嗅いでる目はありました」
「だろうな」
レオンは北門の向こうを見たまま答える。
出発時刻を知る者。
積み場を知る者。
路線を知る者。
多くはない。
だが少ないから安全とも限らない。
フィアナが隣で呼ぶ。
「殿下」
「何だ」
「次の準備も進めておきましょう」
「成功しても、失敗しても、止まれません」
レオンは頷いた。
その通りだ。
一便は重い。
だが、一便だけで冬は越えられない。
それでも最初の車輪はもう回った。
問題は、その音を誰が聞いていたかだった。




