第55話 将来を売る
その夜、実務室に残ったのはいつもの顔ぶれだった。
レオン。
フィアナ。
セリス。
ドルク。
ヘルマン。
そして途中から、マルタも呼び戻した。
机の上には、今度は物資の不足表ではなく、春以降に動かせそうな流れが並んでいる。
北道の通行。
領都市場の荷下ろし順。
関所手数の減免。
倉の一時貸し。
春の耕作後に出る余剰品の優先買付。
修繕済み街道の利用枠。
今はどれも絵空事に見える。
でも、全くの嘘ではない。
「……危ないですね」
とセリスが最初に言った。
「だろうな」
とレオンは答える。
「来春以降の利益を先に切る形です」
「言い換えれば、未来の裁量を売る」
「書き方を間違えれば、別の腐敗の種になります」
「だから書き方を詰める」
とレオンは言った。
「誰にでも好きに渡すんじゃない」
「期間、量、範囲、優先順位、全部切る」
ヘルマンが紙を覗き込む。
「通行減免は一律にしない方がよろしい」
「揉めますぞ」
「だな」
レオンは頷く。
「全免じゃなく、限定路線だけ」
「しかも冬越えの現物納入と引き換え」
フィアナがすぐに書き足す。
「北道三路のうち、今修繕が先行している道だけに絞ります」
「期限は来春の播種前まで」
「荷目も限定した方がいいでしょう」
「薪、保存食、薬草、布、飼料」
とマルタが言う。
「余計な荷まで入ると、配給所が死にます」
全員の目が一度、彼女へ向いた。
マルタは少しだけ肩を引く。
だが言い直さない。
レオンはそのまま頷いた。
「その通りだ」
「欲しい物だけに絞る」
ドルクが机の端を指で叩く。
「でも、それで商人が乗りますか」
「明日の銀より、来春の道だろ」
「相手によっちゃ笑いますよ」
「笑う奴は笑わせておけばいい」
とレオンは言う。
「全員を釣る必要はない」
「冬前に現物を持っていて、春の流れに食いつく奴だけでいい」
それが今回の肝だった。
大量確保は無理。
全商人を味方にするのも無理。
だったら、刺さる相手だけを狙う。
金のない客でも、未来の利益に飢えた相手なら話は変わる。
特に今の領都は、旧商流が腐っている。
大商会に食われている小さめの商人や、北道に入りたい連中はいるはずだ。
フィアナがレオンを見た。
「本気ですか」
「これを出せば、今後の商流に手を入れると宣言するのと同じです」
「そのつもりでやる」
レオンは答えた。
「今までの流れに握られたままだと、冬のたびに同じことになる」
その言葉に、フィアナは黙った。
反対ではない。
ただ、重みを測っている顔だった。
やがて彼女は静かに口を開く。
「……でしたら、私から一つ」
「優遇権は必ず単独にしないでください」
「独占を避ける?」
「はい」
彼女は頷く。
「一社だけに与えれば、次の冬に逆に首を締められます」
「競わせる余地を残すべきです」
レオンは少しだけ口元を緩めた。
「やっぱり君はそこを見るな」
「見ないと、また痛い目を見ます」
淡々としている。
でも、その“また”には実感があった。
セリスがそこへ入る。
「では、文面はこうです」
「冬期現物納入の対価として、来春以降の限定優遇を与える」
「ただし独占ではない」
「履行不備があれば即時失効」
「価格の上限も入れます」
「入るのか」
「入れなければ、恩を売って二度刺されます」
それも正しかった。
次の日、条件を書き切った文書を持って、レオンたちは小さな会談を開いた。
大商会ではない。
だが荷を持っている商人。
北道に倉を持つ者。
薬草をまとめられる者。
薪を山側から引ける者。
数は多くない。
五人だけだ。
部屋の空気は最初から重かった。
商人たちは礼を尽くしている。
けれど、目は値踏みのままだ。
若い王子。
痩せた領地。
冬前。
現金不足。
どう見ても強い客ではない。
レオンは媚びなかった。
その代わり、先に現実を出した。
「今、フェルド領は金が弱い」
「それは隠さない」
「だが、来春から商流を組み直す」
「そこへ先に入る権利を、現物納入と引き換えに切る」
最初に反応したのは、年嵩の商人だった。
「随分と大きく出られますな」
「まだ冬も越えておられぬのに」
「越えるために出してる」
とレオンは返す。
「越えられない相手の優遇権なら、紙くずだ」
「だから今ここで、越えるための取引にする」
正面から言い切ると、何人かの眉が動いた。
フィアナが横から文書を広げる。
「対象は限定です」
「荷目も、期間も、路線も絞ります」
「独占はさせません」
「ただし、履行した者を次に優先します」
商人たちが文書を読む。
完全に食いついてはいない。
でも、無視もしていない。
その空気を見て、レオンはさらに一つだけ加えた。
「今までの流れに入れなかった商人には悪くない話だと思う」
「大きい家に全部持っていかれてるなら、なおさらな」
それは露骨な揺さぶりだった。
大商会の名前は出さない。
でも、この部屋にいる何人かが、古い商流へ不満を持っている顔はしていた。
そのうちの一人。
まだ若い男が、そこで初めてはっきり口を開いた。
「条件次第、ですね」
他より年が若い。
服は上等だが、派手すぎない。
目だけが少し鋭い。
レオンはその男を見る。
「名前は」
「ノア・グリースです」
男は一礼した。
「大商会ほどの荷は持ちません」
「ですが、北道沿いに小さい倉を二つ」
「干し草と乾豆なら、ある程度は動かせます」
フィアナがその名に覚えがあるらしく、わずかに視線を動かした。
だが何も言わない。
ノアは続ける。
「問題は、本当に来春以降の道を触れるのか、です」
「口約束ならいりません」
「王子の思いつきでも困る」
ずいぶん率直だ。
でも、嫌いじゃない。
「思いつきじゃない」
とレオンは答えた。
「文にする。役所帳にも残す」
「ただし、今この場で全部は約束しない」
「履行した分だけ、次を開く」
ノアは少しだけ笑った。
「悪くないですね」
「嫌いじゃありません」
それは、即答の協力ではない。
だが、完全な拒絶でもなかった。
他の商人たちもすぐには頷かない。
それでも、最初に来た時より目が止まっている。
将来の席を計算し始めた顔だ。
帰り際、ノアだけが一拍遅れて立ち止まった。
「殿下」
「何だ」
「全部は出せません」
「でも、少しなら試せます」
「こちらも、いきなり首は突っ込みたくないので」
「十分だ」
とレオンは言う。
「こっちも最初から全部は求めない」
ノアはそれだけ聞いて、軽く頭を下げた。
小さい。
だが、反応はあった。
未来の利益を切る。
危険な札だ。
でも、ゼロの机に置くよりはましだった。
そして何より、商人たちの目が少しだけ変わった。
フェルド領は、ただ金のない客ではない。
春からの流れそのものを変える気でいる。
そう見え始めたなら、この賭けは半分までは届いている。
ただし、まだ紙の上だ。
本当に冬を越す線へ変えるには、
現物を一つでも先にこちらへ引き込まなければならない。




