第54話 信用のなさ
昼過ぎ、実務室に集まったのは商人ではなく、断りの言葉だった。
一軒目は「荷が足りない」。
二軒目は「他所への約定が先」。
三軒目は返事すら遅い。
どれも嘘とまでは言い切れない。
だが本音が別にあるのは分かる。
フェルド領へ回したくない。
回すなら高く売りたい。
後払いは嫌だ。
要するに、そういうことだった。
レオンは三通目の返書を机へ置いた。
「分かりやすいな」
セリスが横から言う。
「露骨すぎるくらいですね」
「丁寧な文面ですけれど」
「丁寧に見下してくるの、王都だけじゃないんだな」
「礼儀は便利ですので」
皮肉が入っている。
だが事実でもあった。
礼儀正しい断りは、角が立たない。
しかも相手の足元が弱い時ほど効く。
フィアナは返書の文面を一枚だけ見て、すぐに戻した。
「この三軒は、最初から無理だと思っていました」
「じゃあ何で当たった」
「無理だと確認するためです」
「今の条件で動かない相手を先に切らないと、次へ進めません」
短いが、もっともだった。
レオンは椅子へ深く座り直す。
「他は」
「小口商人なら来ます」
とフィアナが答える。
「ただし、量が細い」
「薪を少し、干し草を少し、薬草を少し」
「一つで全体は埋まりません」
「でも、ゼロよりはましだな」
「はい」
彼女は頷く。
「それでも、現金を積まない限り量は集まりません」
その現金がない。
話はそこへ戻る。
実務室の隅では、マルタが今日の不足報告をヘルマンへ渡していた。
兵がどう、村がどうという紙のやり取りの向こうで、こちらはまだ買い手にもなれていない。
レオンはふと尋ねた。
「前に止まったって言ってたな」
「買付の話」
フィアナの指先が紙の上で少しだけ止まる。
「ええ」
「何があった」
彼女はすぐには答えなかった。
答えたくないというより、どこから言うかを選んでいる顔だった。
「父がもう表へ出られなくなってからです」
「冬前に、領都商人へ薪と保存食の先買いを持ちかけました」
「断られた?」
「最初は受ける顔をしました」
「ですが、契約寸前で値が変わりました」
「しかも現金先払いに」
レオンは眉を寄せる。
「最初からそのつもりだったか」
「おそらく」
とフィアナは言う。
「こちらの在庫が薄い時期を見て、ぎりぎりで条件を釣り上げたのでしょう」
「断れば“買えなかった領主側”になる」
「飲めば、次も同じことをされます」
レオンは小さく息を吐いた。
よくあるやり口だ。
弱っている相手に、最後の段で条件を変える。
断れば相手が困る。
困ると分かっているから、さらに踏む。
「で、断ったのか」
「半分は断りました」
「半分は飲みました」
フィアナは淡々としていた。
「全部を切ればその場で冬が崩れます」
「ですが全部を飲めば、春が死にます」
実務の顔だ。
苦いけれど、現実から目を逸らしていない。
レオンはそこで、彼女の横顔を少し見た。
王都では悪女と呼ばれた。
でも実際にやってきたのは、たぶんこういう汚い選択だ。
誰かに嫌われても、今と次の両方が死なない線を取る。
その役を、ずっと一人でやってきたのだろう。
フィアナは続けた。
「それだけではありません」
「領都の商人たちは、フェルド領が後で払うと言っても信じません」
「以前の役所が約定を曖昧にしすぎました」
「値を切り、受領を遅らせ、責任者が変わるたびに話を流した」
「……信用を削ったのは、旧役人だけではありません」
「領主側の名でも、何度も」
そこまで言ってから、彼女はわずかに唇を結んだ。
自分の家の名でも、という意味だ。
フィアナ自身の責任ではない。
でも彼女はそこから逃げない。
レオンは短く言う。
「君のせいじゃない」
フィアナは少しだけ目を伏せる。
「そう言っていただけるのは助かります」
「ですが、相手はそう分けません」
「辺境伯家の名で出た話なら、まとめてフェルド領の不履行です」
そこへ、ドルクが一枚の紙を持って入ってきた。
「北市場の方で、薪屋の親父が一応来るそうです」
「ただ、“銀を見てから”と言ってます」
「分かりやすい」
とレオンが言う。
「ええ」
ドルクは肩をすくめた。
「俺でも買う側ならそう言います」
「正直で助かるよ」
「慰めにはならんでしょうが」
実際、慰めにはならない。
だが、まっすぐで分かりやすい現実の方がまだいい。
夕方、小口の商人が二人来た。
一人は薪。
もう一人は干し草と粗い布。
どちらも態度は丁寧だった。
しかし机の上へ銀貨袋を置かない限り、話は先へ進まない空気がはっきりあった。
「後払いは困りますな」
と薪屋は言った。
「去年の冬も、似た話で泣きを見た者がおります」
「今回は書面を切る」
とフィアナが言う。
「受領印も残す」
「紙があっても、回収できねば薪にはなりません」
口調は柔らかい。
でも一歩も譲らない。
干し草を持ってきた男も同じだった。
「今は皆、冬前で苦しいのです」
「余らせているように見えても、先の約束がある」
「こちらとしても、信の置ける相手へ回したい」
信の置ける相手。
要するに、フェルド領ではないということだ。
レオンはそこで、あえて聞いた。
「現金があれば出せるのか」
男は少しだけ迷ってから頷いた。
「量にもよりますが」
「後払いだと?」
「量を絞ります」
「値も上がります」
「そして先の約定が優先になります」
正直ではある。
そして厳しい。
レオンは商人たちを責めなかった。
責めても意味がない。
彼らは善人ではないかもしれないが、狂ってもいない。
危ない客に危ない値をつけているだけだ。
交渉が終わり、二人が去ったあと、実務室は少し冷えた。
マルタが遠慮がちに口を開く。
「……やっぱり、駄目ですか」
「駄目とまでは言わない」
とレオンは答える。
「ただ、金だけじゃ足りないし、金がなくても終わる」
ヘルマンが帳面を閉じる。
「信のない家が冬前に買う」
「商人から見れば、上客ではなく火薬玉ですな」
「嫌な喩えだな」
「事実は大抵」
「それはもういい」
小さく笑いが漏れた。
重い空気が、ほんの少しだけ緩む。
だが問題は何一つ軽くなっていない。
レオンは机の上の銀貨袋を見た。
足りない。
それはもう分かっている。
なら、何を積めばいい。
銀の代わりに出せて、しかも相手が今ほしがるもの。
今すぐの現物ではない。
でも、商人が先の利に変えられるもの。
その時、セリスが何気なく言った。
「商人は、銀だけで動くわけではありません」
「確実に儲かる席でも動きます」
レオンが顔を上げる。
「続けて」
セリスはわずかに肩をすくめた。
「当たり前の話です」
「現金が弱い客でも、将来の流れを握れるなら見方は変わる、というだけで」
将来の流れ。
その一語が、机の上の不足表とは別の線を引いた。
フィアナもその意味に気づいたらしい。
薄灰の目が、ほんの少しだけこちらへ寄る。
「……殿下」
「何を考えましたか」
レオンはすぐには答えなかった。
まだ形になりきっていない。
でも、今のフェルド領には金がない。
一方で、これから作れる流れならあるかもしれない。
春以降。
再建の先。
交易の入口。
関所。
倉の優先枠。
売るのは物ではなく、先の利益だ。
危ない。
だが、何も差し出さずに冬は越えられない。
レオンは不足表の横へ、別の紙を引き寄せた。
「ちょっと、次の表を作る」
「今度は今ある金じゃない」
「春から先に、何を渡せるかだ」




