第53話 冬支度の計算
臨時行政班の机が動き始めて三日目の朝、実務室の空気は少しだけ変わっていた。
静かではある。
だが、止まってはいない。
マルタが配給所側の控えを揃え、ヘルマンが戻り報告を役所帳へ写し、ドルクの回した巡回兵が足りない物を書いて戻してくる。
昨日までは誰かの頭の中で終わっていた不足が、今日は紙になって積まれていた。
それ自体は前進だ。
ただし、前進したからこそ見えてしまう崖もある。
レオンは机の中央へ、大きめの紙を広げた。
見出しは三つ。
必要量。
現有量。
不足量。
フィアナがその紙を見て、わずかに目を細める。
「始めますか」
「始める」
とレオンは頷いた。
「人の流れはできた。次は物だ」
「何がどこまで足りないか、逃げずに出す」
ヘルマンが新しい帳面を手元へ寄せる。
「綺麗な数字は出ませんぞ」
「知ってる」
とレオンは答えた。
「綺麗にするためにやるんじゃない」
「死なない線を探すためだ」
最初に出したのは、食糧だった。
隠し倉から接収した大麦。
塩。
乾豆。
干し肉。
乾魚。
それに既存倉庫の残り。
配給表に基づく領都分。
村分。
炊き出し予備。
巡回兵用の最低限。
マルタが控え札の束と照らしながら言う。
「今の配り方を続けるなら、食べ物だけでも冬の終わりまでは届きません」
「途中で一度、量を落とす必要が出ます」
「どの時期だ」
とレオンが聞く。
「一番早ければ、深雪に入る前」
「村の戻りが悪いところから先に減らします」
レオンは眉を寄せた。
深雪に入る前。
つまり、本格的に動けなくなる前に苦しくなる。
フィアナが別の紙を差し出す。
「薪もあります」
「こちらの方が、家によっては食糧より先に効きます」
紙には領都内の薪在庫、切り出し量、搬入見込みが書かれていた。
見込み、と言っても心もとない。
山の木を切れば終わりではない。
運ぶ手がいる。
乾かす時間もいる。
雪が深くなれば道も死ぬ。
「少ないな」
「はい」
フィアナは短く答えた。
「去年の秋に、金の足りない家からかなり売らせています」
「その時点で冬を先食いしています」
レオンは息を吐いた。
先に食う。
先に燃やす。
先に売る。
貧しい場所では、それが一番高くつく。
ドルクが腕を組んだまま口を開く。
「兵舎分も削れますが、削りすぎると見張りが死にますよ」
「夜回りで倒れたら、それはそれで詰みです」
「分かってる」
とレオンは言う。
「削るための表じゃない」
「削れない線を出す表だ」
その言い方に、ドルクは少しだけ口元を歪めた。
完全ではないが、納得した顔だった。
次に並んだのは薬草だった。
乾燥した解熱草。
腹痛用の粉末。
傷薬の材料。
咳止めの根。
どれも量が少ない。
しかも食糧と違って、代替が利きにくい。
ヘルマンが細い字で欄を埋めながら言う。
「病が増えるのは寒くなってからです」
「今足りぬ薬は、後でさらに足りなくなりますな」
「嫌な言い方だな」
「事実は大抵嫌なものです」
セリスが壁際から補足した。
「王都へ取り寄せれば値が跳ねます」
「しかも後払いを嫌われます」
「この領地にとって一番買いにくい品です」
それもまた、嫌な事実だった。
布も足りない。
冬着の継ぎ当て。
毛布の補修。
袋の縫い直し。
包帯用の端切れ。
食糧ほど目立たないが、ないと静かに人が弱る。
さらに家畜飼料。
馬。
荷を引く牛。
春の耕作に残したい羊。
全部を生かすのは無理でも、全部を切れば春が死ぬ。
レオンは書き足された欄を順番に見た。
食糧。
薪。
薬。
布。
飼料。
どれか一つだけ足りないなら、まだ誤魔化せる。
でも今のフェルド領は、どれも薄い。
前に進んだはずなのに、紙の上ではむしろ息苦しくなった。
「……隠し倉を入れても、足りないか」
誰に言うでもなく漏れる。
フィアナはすぐに答えなかった。
代わりに、現有量の欄へ指を置く。
「持ちます」
「ただし、何も起きなければ、です」
「起きるだろうな」
「はい」
彼女は頷いた。
「雪で一度止まるだけでも崩れます」
「病が広がれば薬が飛びますし、薪不足の家が増えれば炊き出しにも人が流れます」
レオンは机の端を軽く叩いた。
これが現実だ。
配給を回した。
人も少し揃えた。
でも、それで冬が軽くなるわけじゃない。
むしろ、ちゃんと見えるようになった分だけ、足りなさがはっきりした。
「買うしかない」
と彼は言った。
マルタの手が止まる。
ヘルマンも顔を上げた。
「食べ物だけじゃない」
「薪も、薬も、布も、飼料も」
「最低限、外から入れないと冬の途中で線が切れる」
フィアナはしばらく黙っていたが、やがて低く言った。
「現金は、ありません」
「どれくらいない」
「胸を張れるほどではまったく」
「倉から取り戻した分はありますが、全部を買える額ではありません」
「役所の穴埋めと巡回の立て直しだけでも削られます」
セリスが淡々と継ぐ。
「しかも今のフェルド領に、都合よく安値で売ってくれる商人はいません」
「むしろ冬前だからこそ、値は上がります」
当然だ。
足りない時に欲しがる客ほど、弱い。
弱い客に親切な商人ばかりなら、この領地はここまで痩せていない。
レオンは不足量の欄をもう一度見た。
多い。
だが絶望的に多いわけでもない。
全部は無理でも、死なない線までは寄せられるかもしれない。
その時、ドルクがふと口を開いた。
「殿下」
「数だけ見るなら、兵糧優先で薪を後回しにする手もあります」
「寒いのは耐えろ、で押す形です」
フィアナがすぐに首を振った。
「駄目です」
「食べても凍えれば病が出ます」
「領都外れの小屋は、冬の夜を甘く見られる作りではありません」
「分かってますよ」
とドルクは低く返す。
「だから“数だけ見るなら”です」
二人のやり取りは短かった。
だが、この領地が何で苦しんでいるかはよく出ていた。
どれかを救えばどれかが死ぬ。
そういう薄さの上に立っている。
レオンは紙束を重ね直した。
「今日中に買付候補を出す」
「領都で動ける商人、北道に繋がる商人、小口でもいい」
「まず話を聞く」
ヘルマンが少しだけ怪訝そうな顔をする。
「買う相手はおりますかな」
「この領地に、今」
フィアナが静かに答えた。
「いないわけではありません」
「ただし、簡単には動きません」
その声音が少しだけ重かった。
レオンは彼女を見る。
「ぶつかったことがある顔だな」
フィアナは一拍置いた。
否定しない。
「以前にも、冬前の買付は試みました」
「ですが、途中で止まりました」
「金か」
「金だけではありません」
とフィアナは言う。
「もっと面倒な壁です」
レオンはその言葉を聞きながら、不足量の欄を折りたたんだ。
金がないのは分かっていた。
だが、彼女の顔はそれだけじゃないと言っている。
たぶん次は、数字ではなく人の話になる。
商人。
信用。
そして、この領地がこれまで何を失ってきたか。
机の上の表はできた。
足りない物も出た。
だから次に向き合うべき相手も、はっきりした。
冬を越すには、物資そのものだけではなく、
この領地が金を払える相手だと、どこかに信じさせなければならない。




