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捨てられ第三王子は、信頼を取り戻したいだけなのに、崩壊寸前の辺境領と婚約破棄寸前の令嬢まで任されました  作者: 玖城イサ
第一章

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第51話 元兵士と老書記

 


 ヘルマンは、役所の奥の古い記録室にいた。


 昼でも薄暗い。

 窓は小さく、棚には革表紙の帳面が積まれている。

 空気は乾いていて、少し黴の匂いがした。


 その中で老人は、一人で紙を繕っていた。


 髪は白い。

 背も少し曲がっている。

 だが、手元だけは驚くほど迷いがない。

 細い指で破れた頁を合わせ、糊を薄く引いている。


「ヘルマン」


 フィアナが呼ぶと、老人はゆっくり顔を上げた。


「これは、お嬢さま」

 声はかすれている。

 けれど耳は悪くないらしい。

「珍しい場所へ」


「相変わらずですね」

 とフィアナが言う。


「古い紙は、放っておくとすぐ死にますので」


 言い方が少し面白い。

 レオンはそのまま老人を見る。


 ヘルマンは第三王子の姿に気づくと、椅子から立ちかけた。


「失礼を」

「ご挨拶を――」


「いい」

 とレオンは止める。

「座ったままで」

「少し聞きたい」


 老人は迷いながらも腰を戻した。

 視線は鋭い。

 年寄りのぼんやりした目ではなかった。


「昨日まで、何をしてた」

 とレオンが聞く。


「古い台帳の整理です」

「使わなくなった倉の記録、関所の旧控え、廃止前の徴税札の分類」

「今は誰も欲しがりませんが、捨てると後で困ります」


 その答えだけで、フィアナが言っていた“老書記”の輪郭は見えた。


 表では使われない。

 だが、紙を死なせない種類の人間だ。


「現場の控えは見られるか」

 とレオンが聞く。


 ヘルマンは少しだけ首を傾げた。


「見られます」

「字が読めれば、どんな紙でも」

「汚い紙ほど、誰が焦って書いたか分かりやすいので」


 セリスが面白そうに目を細めた。


「頼もしいですね」


「嫌味でなければありがたいですが」

 とヘルマンが返す。


 即座だった。

 レオンはそこで、ただの年寄りではないと確信する。


「マルタから聞いた」

「前は役所で書記だったらしいな」


「ええ、昔は」

 老人は苦くもなく答えた。

「今は“細かすぎる”と嫌われております」


「実際どうなんだ」


「細かいです」

 とヘルマンは言った。

「ですが、細かくない帳面は、だいたい揉めます」


 それは正論だった。


 レオンは棚の上の古い控えを一冊手に取る。

 頁端に、細かな補足がびっしり入っていた。


「……たしかに細かいな」


「抜けるよりましです」


 セリスが小さく咳払いをした。

 笑いを飲んだらしい。


 フィアナが本題へ入る。


「ヘルマン、役所へ戻ってきてほしいのです」


 老人は一瞬だけ固まった。

 それから、ゆっくり目を細める。


「戻る、ですか」


「配給表と仮名簿、倉の持ち出し控え、受領札」

「全部を繋ぐ記録が必要です」

「今の役所には、それを束ねられる人が足りません」


 ヘルマンはしばらく黙った。

 断るというより、量を測っている顔だ。


「誰が書きますか」


「配給所はマルタ」

 とレオンが答える。

「倉の確認も入る」

「巡回と見張りはドルク側」

「それを役所で束ねる人間が欲しい」


「……なるほど」


 そこで老人の視線が少しだけ変わる。


 興味を持った顔だった。


「壊れた紙を立て直すのではなく」

「最初から流れを繋ぎ直すおつもりですか」


「そのつもりだ」

 とレオンは頷く。

「今の紙は、配るためじゃなく責任を逃がすためにできてる」

「それを変えたい」


 ヘルマンは小さく息を吐いた。

 呆れでも嘲りでもない。

 長い間、聞きたかった言葉をようやく聞いた時の息に近かった。


「面倒なことを仰いますな」

 と老人は言う。


「だろうな」


「ですが、ようやく筋は通っています」


 レオンはその返しが少し気に入った。


「できるか」


「できます」

 ヘルマンは言い切った。

「ただし、条件があります」


 また条件だ。

 この章に入ってから、そればかりだ。

 でも悪くない。

 黙って従う人間より、よほど信じやすい。


「聞く」


「控えを一枚で終わらせないこと」

「倉、配給所、役所」

「最低三本です」

「それから、途中で気分が変わって書式を増やさないこと」

「増やした紙は、最初の一週間で死にます」


 セリスがすぐメモを取る。


「合理的ですね」


「長く紙を見ておりますので」


 ヘルマンはそこで、ちらりとマルタを見た。

 彼女は少し後ろで控えていた。


「配給所側がマルタなら、話は早いでしょう」

「彼女は数字を誤魔化しません」


 マルタが驚いた顔をする。


「……私を覚えていたんですか」


「倉の片隅で、他人の書き損じを黙って直していたでしょう」

「そういう者は忘れません」


 短いやりとりだった。

 だが、これで二人の線が繋がった。


 レオンはそこでドルクへ視線を向ける。

 彼は扉の近くで腕を組んでいた。


「警備側はどうだ」


「見張りと連絡なら回せます」

 とドルクが答える。

「ただ、巡回兵だけだと荷と人の両方までは追いきれない」

「元兵士を何人か引っ張れます」

「今は門番崩れとか、荷下ろしの手伝いに落ちてる連中です」


「信用できるか」


「全部は無理です」

 ドルクは正直に言う。

「でも二人なら選べる」

「少なくとも、昨日の配給で妙な動きをしなかった奴はいます」


「じゃあ選んでくれ」

「役目は見張りだけじゃない」

「村から戻る伝達もいる」

「何が足りないか、何が余ったか、それを早く持ち帰る手が欲しい」


 ドルクは頷いた。


「警備連絡役、ですね」


「そうだ」


 フィアナがそこで、静かにレオンを見る。


「……殿下は、本当に身分より役目で切るのですね」


「今さらだろ」


「分かってはいました」

 彼女は少しだけ目を伏せた。

「ですが、言うのと実際に人を置くのでは重みが違います」


 レオンは答えなかった。

 代わりに、机の上へ新しい紙を広げる。


「役目を書き出す」

「配給所管理」

「倉持ち出し確認」

「役所記録」

「警備連絡」

「ここまでは最低限」


 セリスが横から見て言う。


「小さいですが、ようやく行政らしくなってきましたね」


「まだ寄せ集めだ」

 とレオンは返す。


「ええ」

 ヘルマンが言った。

「ですが寄せ集めでも、流れが繋がれば役所は喋り始めます」


 その表現が良かった。


 今のフェルド領は、喋れていない。

 倉が何を持ち、配給場が何を配り、村が何を失い、巡回が何を見たか。

 それが一つの口へ戻ってこない。


 だから崩れる。


 レオンは紙へ役目を書き込む。

 マルタ。

 ヘルマン。

 ドルク。

 そして未定の連絡役二名。


 まだ少ない。

 でも、昨日までのゼロよりはずっといい。


 その時、記録室の外で足音が止まった。

 若い下役が、恐る恐る扉を叩く。


「フィアナ様」

「その……役所の方で、少し」


「何ですか」


「臨時管理役に、外の寡婦を入れると聞いて」

「書記台も、ヘルマン老を戻すとか」

「それでは、あまりに」


 あまりに、の先は言い切らなかった。

 だが十分だ。


 身分が低い。

 年寄りだ。

 役所の格が落ちる。


 そういう不満だろう。


 フィアナは一歩も動かなかった。

 代わりにレオンが答える。


「格で腹は膨れない」

「使える手を置く」

「以上だ」


 下役はまだ言いたそうな顔をしたが、セリスが横から静かに告げる。


「不満があるなら、昨日の配給控えを今ここでまとめてみますか?」

「三刻で終えられたら、席を一つ用意しましょう」


 それで若い下役は黙った。

 一礼して引く。


 ドルクが鼻で笑う。


「容赦ないですね」


「優しい提案ですよ」

 とセリスは涼しい顔で返した。

「できるなら、ですが」


 扉が閉まる。

 室内にもう一度静けさが戻る。


 レオンは紙を見下ろした。


 反発は出る。

 当然だ。

 だが、それで止まるなら最初から何も変えられない。


「今日中に形にする」

 と彼は言った。

「小さくていい」

「でも、明日からは昨日より回るようにする」


 ヘルマンがゆっくり頷く。


「では、書式を決めましょう」

「紙が先に揃えば、人は後から合わせられます」


 マルタも息を整えて言う。


「配給所側の控えは、私が見ます」

「でも、倉の出し入れが曖昧なままだとまた詰まります」


 ドルクが続く。


「見張りと伝達は俺が切ります」

「戻りの報告も、紙にさせますよ」


 レオンはそこで、ほんの少しだけ前へ進んだ感覚を持った。


 まだ戦力じゃない。

 奇跡でもない。

 ただ、ようやく役所の中に、小さな骨組みが立ち始めていた。


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