第45話 誰に届けるか
荷車の軋む音は、実務室の窓を閉めても消えなかった。
北道へ回す最初の分だ。
量は多くない。
だが、今のフェルド領では、その少しが重い。
レオンは白紙の仮名簿を見下ろした。
穀物はある。
塩もある。
干し肉と乾豆も出た。
なのに、次の問題はもっと面倒だった。
誰に届けるか。
それが紙の上にいない。
フィアナが古い領民名簿を開く。
擦れた頁から、乾いた紙の匂いが上がった。
「北道三村を先に切ります」
「領都外れは、そのあとです」
「順番はそれでいい」
とレオンは答える。
「問題は、村の中だ」
セリスが新しい用紙へ罫線を引いていた。
「仮名簿の項目は五つ」
「家名、人数、働き手、子ども、高齢者」
「これ以上増やすと、最初は回りません」
「十分だ」
レオンは古い名簿の一頁を指で押さえた。
「税の名簿だからな」
「誰が生きてるかより、誰から取るかの紙だ」
フィアナが小さく頷く。
「はい」
「ですから、配るためには足りません」
彼女は一つずつ村名を確認していく。
ラムゼ村。
北道沿いの手前。
先日見た焼け跡と、痩せた子どもの顔が少し浮かぶ。
「この家は死去済みです」
「こちらは一家で流出」
「この家は……本来なら二戸に分かれているはずですが、まだ一つのままですね」
レオンは書き写しながら言う。
「村ごとに村長立会で確認させる」
「今日出した最初の荷は、渡すだけじゃなく人数も拾わせる」
ドルクが壁際で腕を組んだ。
「村長が嘘ついたら?」
「全量は渡さない」
とレオンは言う。
「次回分は確認後だ」
「自分の村だけ多く取れば、次で首を絞めるって分かる形にする」
「……なるほど」
ドルクは不承不承という顔で頷いた。
完全に信じたわけじゃない。
だが、仕組みとしては筋が通っている。
セリスが紙束を揃える。
「村ごとの優先順位は張り出しますか」
「まだ早い」
フィアナが先に答えた。
「今の段階で全面公開すると、名簿の穴だけが先に騒がれます」
「同感」
とレオンは言う。
「まずは最優先分だけ回す」
「回しながら土台を作る」
実務室の外を、誰かが急ぎ足で通る気配がした。
館内全体が少しずつ落ち着かなくなっている。
処断の夜。
隠し倉庫の発見。
そして今朝の荷車。
さすがに、何かが動き出したことは皆が察する。
まだ中身までは知らなくても、空気はもう隠せない。
レオンは名簿へ目を戻した。
「領都外れはどう見る」
フィアナは少し考えた。
「飢えの深さでは村が先です」
「ですが、領都外れを完全に後ろへ回すのは危険です」
「炊き出しでも配給でも、領都の不満は表に出やすい」
「暴れるとしたら、村じゃなくて領都か」
「はい」
「村は、もう長く諦めています」
「領都は、諦めきれていない分だけ火がつきやすい」
それは分かる気がした。
遠い村では、怒る前に痩せる。
領都では、比べる相手がいる。
隣の家、向かいの店、通りの列。
不公平は、見える場所ほど燃えやすい。
セリスが淡々と付け足す。
「しかも、誰かが煽れば早いでしょうね」
「旧役人派の残り、商人側、あるいは単に腹を空かせた人間でも」
「嬉しくない候補が多いな」
「今のところ、どれも現実的です」
レオンは一枚別紙を取った。
「領都外れにも最小限は回す」
「ただし村の最優先分を削らない範囲で」
「名目は押収物再整理の限定配分」
「理由は聞かれたら、危険度順だと答える」
ドルクが言う。
「危険度なんて言って、納得しますかね」
「全部はしない」
フィアナが返した。
「ですが、こちらが順番を持っていると見せることには意味があります」
「今までは、それすらありませんでしたから」
その一言が重かった。
今までの領地には、たぶん順番がなかった。
あったのは、強い者から、近い者から、声の大きい者から、だったのだろう。
だから紙があっても、人は制度を信じない。
レオンは紙へ村名を書きながら言う。
「仮名簿は村単位で作る」
「領都外れは、区画ごとで暫定にする」
「最初から完璧は無理だ」
「はい」
とフィアナが頷く。
「ですから、まず不公平を減らします」
「消すのではなく」
レオンは少しだけ彼女を見た。
言い方がらしいと思った。
綺麗事ではない。
減らす。
そこから始める現実の言葉だ。
「殿下」
とセリスが呼ぶ。
「何」
「この名簿、村によっては記載年がずれています」
「同じ頁の中でも、三年前の書き足しと昨年の修正が混ざっています」
「継ぎ足しで延命してたわけか」
「はい。壊れた棚を紐で縛って立たせるようなものです」
「うまい例えだな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
フィアナはその会話の間にも頁を追っていた。
彼女の指が止まる。
「……おかしいですね」
「何が」
「北道二村目の古い名簿です」
「去年の冬に死者が多く出たはずなのに、減り方が小さい」
「誰かが記録を止めたか、意図的に薄くしたか」
レオンは紙を寄せる。
「税を取りたかった?」
「あるいは、実数を見せたくなかった」
とフィアナが答えた。
「村が崩れていると出れば、配給抜けも疑われやすくなりますから」
なるほど、とレオンは思う。
隠したいのは穀物の量だけじゃない。
足りないという結果そのものも、誰かにとっては都合が悪い。
だから村の人数まで曖昧になる。
帳簿はある。
名簿もある。
だが、どちらも助けるための紙ではない。
レオンはペン先を止めた。
「……結局」
「名前を取り戻すところからか」
フィアナが視線を上げる。
ほんのわずかに、表情が和らいだ。
「はい」
「順番を作るには、まずそこからです」
その時、実務室の扉が叩かれた。
巡回兵の一人が入ってくる。
「北道手前村への最初の荷、出ました」
「それと、領都外れで荷車を見た者が増えています」
「何を動かしているのか、聞き込みも」
ドルクが舌打ちしかけて止めた。
「早えな」
「遅くはありません」
とセリスが言う。
「今まで止まっていたものが動けば、目立ちます」
レオンは巡回兵へ頷いた。
「余計な説明はするな」
「聞かれたら、再整理分の限定配分だ」
「それ以上は言わなくていい」
「はっ」
兵が出ていく。
扉が閉まる。
やはり、もう時間はあまりない。
紙を整えるより先に、不満の方が歩き出す。
レオンは改めて白紙の仮名簿を見る。
「今日中に、村の叩き台だけは切る」
「領都外れも最低限の表を作る」
「中途半端でもいい。ゼロよりはましだ」
フィアナが頷く。
「私が現地の記憶を入れます」
「少なくとも、誰が抜けているかはある程度分かります」
「頼む」
セリスも新しい紙を差し出した。
「では私は配給札の形式を整えます」
「村用と領都用で分けた方が混乱が少ないでしょう」
「それも頼む」
ドルクは戸口へ向かいながら言う。
「俺は外を見ます」
「荷車と列、どっちが先に荒れるか見ときますよ」
「助かる」
皆がそれぞれ動く。
まだ小さい。
だが昨日までのような、壊れたままの静けさじゃない。
レオンは古い名簿を閉じ、白紙の方を手前へ引いた。
帳簿は残っていた。
だが、それで人は助からない。
必要なのは、今生きている名前だ。
そしてその名前を拾いきる前に、領都の方が先に騒ぎ出しそうだった。




