第40話 ここから始めましょう
机の上へ、紙が次々に広がっていく。
領内地図。
倉庫の現残数。
村別の被害見込み。
兵の配置。
関所の通過控え。
そして、人の名前が足りない役所の一覧。
実務室は相変わらず寒い。
だが、作業の温度は昨日までより明らかに高かった。
レオンは紙束を大きく五つへ分けた。
「全部は無理だ」
「だから順番を決める」
フィアナがすぐ答える。
「同感です」
「同時に手を出せば、全部薄くなります」
言葉が早い。
しかも噛み合う。
レオンは一枚目を指で叩いた。
「一番は食糧」
「はい」
「理由は説明不要だな」
「冬が近いからです」
「秩序も交渉も、腹が減れば崩れます」
迷いがない。
レオンは頷いて二枚目へ移る。
「次が治安」
フィアナはそこで、わずかに首を傾けた。
「帳簿より先ですか」
「帳簿は重要だ」
「でも配るにも買うにも運ぶにも、道が死んでたら終わる」
「盗賊と内通を放置したままじゃ、次の荷も薄くなる」
フィアナは少し考え、すぐに頷いた。
「……確かに」
「関所と巡回路を押さえなければ、再配給も持ちません」
ここで一度、意見がぶつかる。
でも止まらない。
必要なズレだった。
レオンは三枚目を示した。
「人材」
今度はフィアナの方が先に言う。
「足りません」
「正直、昨日切った分だけでも、役所はかなり空きます」
「だろうな」
「ですが今いる家臣だけでは埋まりません」
「能力のある下役や、現場で帳面を扱える者まで拾う必要があります」
レオンは少しだけ口元を緩めた。
「同じこと考えてた」
「その顔は少し腹が立ちます」
「何でだよ」
「先に言われると悔しいので」
それはたぶん、かなり柔らかい会話だった。
セリスが壁際で書きつけをしながら、ほんの少しだけ呆れたような視線を寄越す。
だが口は挟まない。
レオンは四枚目を指した。
「帳簿はその次」
「ただし後回しじゃない。開き直る」
フィアナが補足する。
「村へ届く順番」
「倉庫残数」
「徴税と配給の経路」
「少なくとも、隠せない形にする必要があります」
「見えるようにすれば、全部は抜けなくなる」
「ええ。抜く側も、少なくとも手間が増えます」
理想論じゃない。
完全な清廉を最初から求めない。
でも、回しながら削られにくくする。
その発想が、ようやく同じ机の上で揃い始めていた。
最後の一束へ、レオンは手を置く。
「流通」
フィアナは静かに言う。
「本当は最初から必要です」
「分かってる」
「でも今すぐ新しい商流は作れない」
「まず足場を止める。次に、少しでも運べる状態へ戻す」
「街道の補修、関所の見直し、商人への条件整理……」
「やることは多い」
「多いですね」
二人とも少しだけ黙る。
多すぎる。
それは事実だった。
紙へ書き出すほど、領地の壊れ方がよく見える。
倉庫は薄い。
道は危うい。
役所は腐っている。
兵は足りない。
名簿は当てにならない。
外からの信用もない。
ひどい状況だ。
でも不思議と、昨日よりは絶望に見えなかった。
順番が見えたからだ。
全部は無理でも、最初の一手なら打てる。
最初の一手があれば、次を考えられる。
レオンは紙の端へ簡単な線を引いた。
食糧。
治安。
人材。
帳簿。
流通。
「この順でいく」
フィアナがその並びを見つめる。
「異論は?」
「大枠ではありません」
「大枠では?」
「細部では山ほどあります」
「だろうな」
「ですが、それはこれから詰めます」
レオンは小さく笑った。
それでいい。
最初から全部一致する必要はない。
むしろ細部で揉められる方が、実務としては健全だ。
その時、外で足音が止まった。
見張りの兵が一礼し、扉越しに告げる。
「殿下、封じていた私物箱の残り目録が、今夜までにまとまるとのことです」
レオンはフィアナを見る。
フィアナも小さく頷いた。
「後で確認しましょう」
「ああ」
短い返事だった。
でもそれで十分だった。
仕事はもう止まらない。
止めたくても、止める余地がない。
レオンは椅子へ座り直し、新しい紙を引き寄せた。
「じゃあ、まず食糧からだ」
「今ある残数と、村ごとの危険度をもう一回重ねる」
「承知しました」
「私の方で、村ごとの冬前消耗を出します」
「兵の巡回路もいるな」
「ドルクを呼びます」
「人材の洗い出しは」
「役所の下働きまで含めて出します」
「役職より、今どこで何を回しているかを優先で」
「いい」
言葉が短くなる。
余計な説明が減る。
その分だけ、作業は速くなる。
セリスが静かに書き留めながら言った。
「ようやく会議らしくなりましたね」
「昨日までは違ったみたいに言うな」
「違いました」
「昨日までは、互いに相手の手札を測っていただけです」
否定できなかった。
でも今日からは違う。
測る段階はまだ終わっていなくても、少なくとも同じ盤の上には立っている。
フィアナが新しい紙を差し出した。
レオンはそれを受け取る。
指先が少しだけ触れる。
ただそれだけのことなのに、昨日までとは意味が違った。
王都の飾りの王子ではない。
悪評まみれの冷たい令嬢でもない。
この領地をどうにかするために、今ここで机を挟んでいる二人だ。
フィアナは地図の上へ視線を落としたまま、静かに言った。
「では、殿下」
その声はもう、試す響きではなかった。
冷たさも消えてはいない。
けれど、はっきりと同じ方向を向いている。
「ここから始めましょう」
レオンは頷く。
ああ、ここからだ。
食糧も、帳簿も、治安も。
そして今夜、封じた箱の残りまで開けば、まだ隠れていた火種も顔を出す。




