第39話 手を組む理由
翌朝、空気は昨日より少しだけ乾いていた。
領都の中庭を見下ろす回廊に立つと、兵の動きが目に入る。
封鎖した役室の前には見張りが残り、倉庫側の出入りもまだ厳しく絞られている。
一日で全部は変わらない。
でも、一日で変わるものもある。
止まっていた歯車が、少なくとも少しは動き始めた。
それは確かだった。
レオンが実務室へ入ると、フィアナはもう来ていた。
机の上には地図と帳面、それに昨夜の封書整理の続き。
「早いな」
「殿下こそ」
それだけのやり取りなのに、昨日までより引っかかりが少ない。
フィアナは一枚の紙を差し出した。
簡易的な領内区分図だ。
村ごとの位置、倉庫、兵舎、街道、関所の位置まで書き込まれている。
「悪評の件は、まだ断定には足りません」
「ですが、放置はできません」
「同感だ」
「ですので、先に確認しておきたいことがあります」
彼女はまっすぐレオンを見た。
「殿下は、なぜここまでなさるのですか」
唐突ではない。
たぶん昨夜から、その問いが残っていたのだろう。
王命だから。
第三王子として来たから。
そういう答えなら簡単だ。
でも、それだけでは足りないのも分かっていた。
レオンは少し考えてから、椅子を引いた。
「座って話すか」
フィアナも向かいへ腰を下ろす。
逃げない姿勢だ。
だからこちらも、曖昧には返したくなかった。
「最初は、適当に生きるつもりだった」
レオンは正直に言った。
「王都でもそうだったし、こっちへ来る時も、できるだけ無理はしないつもりでいた」
「目立たず、壊れず、責任だけ押しつけられない形でやる」
「そのくらいで十分だと思ってた」
フィアナは黙って聞いている。
「でも、村を見た」
「帳面も見た」
「真面目に回してた人間が、途中で削られてた」
そこまで言うと、昔から見慣れた景色が少しだけ重なる。
整えられた表。
責任を薄めるための言葉。
最後に割を食う現場。
世界が違っても、潰れ方はあまり変わらない。
「そういうのが嫌なんだ」
レオンは視線を落とさず言った。
「正しく働いた人間が損をして」
「都合の悪い人間から先に“扱いにくい”ってことにされる」
「王都でも、そういうのを見すぎた」
フィアナの瞳が、わずかに揺れる。
「だからここを立て直したい」
「大きな理想ってほどじゃない」
「でも少なくとも、この領地ではそれをそのままにしたくない」
少し言いすぎたかとも思った。
綺麗事に聞こえる可能性はある。
けれど、フィアナはすぐには切らなかった。
代わりに、静かな声で言う。
「私は、守りたいのです」
レオンは頷く。
「フェルド領を、か」
「はい」
迷いのない返事だった。
「王都へ評価されたいわけではありません」
「婚約がどうなるかも、今は優先ではない」
「ただ、この領地を、これ以上削らせたくない」
「父が動けず、家臣も割れ、外からは軽く見られている」
「それでも、ここで暮らす人間は残るのです」
フィアナの言葉は整っている。
でも、その整い方の奥に感情がある。
怒鳴らない。
泣きもしない。
その代わり、一つ一つの語尾が強い。
「ですから私は、誰に嫌われても領地を残す方を選びました」
「知ってる」
「けれど、もう一人で回すには限界があります」
その一言だけが、少しだけ重かった。
レオンは彼女の顔を見る。
初めて会った時のフィアナなら、たぶんここまで言わなかった。
限界なんて言葉は口にしなかったはずだ。
それを今、出した。
それは弱音というより、状況の確認に近い。
でも、十分に大きい。
「なら、目的は一緒だな」
レオンは言った。
「俺は立て直したい」
「あなたは守りたい」
「言い方は違うけど、進む方向は同じだ」
フィアナは少しだけ目を細める。
「同じでしょうか」
「少なくとも、ここを沈めたままでいいとは思ってない」
「それは」
「それに、あなた一人で抱える形は良くない」
「良くないっていうか、もう持たない」
フィアナが何か言い返しかけて、やめた。
図星だったのだろう。
レオンは続ける。
「ただし条件はある」
「何でしょう」
「隠し事を減らす」
「必要な数字は全部見る」
「決める前に、現地事情は必ず聞く」
「あと、無理そうなら無理だと言う」
フィアナは少しだけ考えた。
「最後の条件だけ、殿下ご自身にも返します」
「分かってる」
「本当に?」
「そこは努力する」
それで初めて、彼女が小さく笑った。
ほんの一瞬だった。
でも冷たい美貌ではなく、年相応の柔らかさが少しだけ見えた。
レオンは少し驚く。
驚いたことを悟られないように、机上の地図へ目を落とした。
フィアナは言う。
「私も条件があります」
「どうぞ」
「私は、必要だと思えば殿下に反対します」
「王族だからといって、黙って従う気はありません」
「むしろその方が助かる」
「本当ですか」
「王都では、黙って整える方が面倒を増やした」
「こっちは早めに揉めた方がましだ」
フィアナは数拍、こちらを見ていた。
それから静かに頷く。
「では」
そこで彼女は右手を机の上へ置いた。
握手を求めるような芝居がかった動きではない。
ただ、区切りをつけるような置き方だった。
「利害の一致、ということで」
レオンは少しだけ笑った。
「十分だな」
そのまま自分も手を出す。
軽く触れるだけ。
短い確認。
温度はまだ高くない。
でも、はっきりしていた。
これは情に流された約束ではない。
王命への形式的な従属でもない。
レオンは領地を立て直したい。
フィアナは領地を守りたい。
目的の角度は少し違う。
でも、向かう先は同じだ。
手を離したあと、フィアナはすぐ実務の顔へ戻った。
「ではまず、現状の優先順位を整理しましょう」
「仕事が早いな」
「感傷で終えても、倉庫は埋まりませんので」
その通りだ。
だが、もう空気は昨日までと違う。
王子と令嬢。
王都の人間と辺境の実務家。
その距離ではなくなっている。
少なくとも今この部屋では、二人とも同じ机を挟んだ側にいる。
レオンは地図を引き寄せた。
「じゃあ、本当に手を組もう」
フィアナは小さく頷いた。
「はい、殿下」
その返事はもう、ただの儀礼ではなかった。




