第34話 慣例という言い訳
翌朝、空は薄く曇っていた。
会議室へ入る前に、レオンは中庭を一度だけ見た。
兵の数が昨日より増えている。
噂はもう城内を回り始めているのだろう。
第三王子が旧役人を止めた。
まだそれだけだ。
それだけなのに、領都では十分に珍しい。
会議室では昨日と同じ三人が待っていた。
だが今日は、顔つきが違う。
怯えだけではない。
腹を括った人間の開き直りが混じっている。
嫌な予感は、だいたい当たる。
レオンが席につくと、徴税担当の男が先に口を開いた。
「殿下は綺麗事をお考えです」
いきなりだった。
フィアナの眉がわずかに動く。
セリスは無表情のまま壁際にいる。
男は続けた。
「北方は王都ではありません」
「足りぬ物は足りぬ」
「道で減る分もあれば、人を動かすために必要な金もある」
「配給を抜いてか」
「抜いたなどと」
「調整です」
その言葉に、レオンは少しだけ前世を思い出した。
改竄ではない。
調整だ。
隠蔽ではない。
整理だ。
呼び方を変えれば、中身まで軽くなると思っている顔。
「その調整で、村は毎回少し足りなくなった」
「少しで済んだのです」
男は言い切った。
「全てを正直に回していては、領都の役所も兵も動きません」
「殿下は現場をご存じない」
レオンは言い返さなかった。
代わりに、横の副書記へ視線をやる。
「お前も同じ考えか」
副書記は一瞬迷ってから頷いた。
「王都へ出す報告もございます」
「荒れた数字をそのまま上げれば、上はすぐ責任者を替えろと言う」
「ですが代わりなど来ない」
「結局、残った者で回すしかないのです」
倉庫番の男も、小さな声で続いた。
「袋を少しずつ薄めるのは、昨日今日始まったことではありません」
「前から、そうでした」
前から。
その一語が重かった。
フィアナが静かに問う。
「誰の代からですか」
倉庫番は目を伏せる。
「……明確には」
「ただ、私が入った頃にはもう」
「私が実務を見る前から、ということですね」
「おそらくは」
フィアナはそれ以上すぐに言葉を継がなかった。
レオンには分かった。
彼女は怒っている。
自分が足りない頭で見落としたのではない。
見に行けない場所と、上がってこない数字の間で、腐敗が慣例になっていた。
それを今、当事者たちが平然と“昔から”と呼んでいる。
徴税担当がさらに言う。
「殿下は村を見て胸を痛められたのでしょう」
「ですが、現場を回す者は感傷だけでは生きられません」
「感傷で村は回らない」
「だからお前たちは配給を薄めた」
「王都でも皆やっております」
その瞬間、部屋の空気がはっきり変わった。
副書記がしまったという顔をした。
倉庫番は目を閉じる。
だが徴税担当はもう引かない。
「中央へ上げる数字は整える」
「不足は下で吸収する」
「通すべき荷には通行の礼を取る」
「この程度、どこでもやっていることです」
レオンは前世の会議室を思い出した。
本当はおかしい。
でも皆やっている。
今さら止めたら回らない。
だから仕方ない。
腐った組織ほど、その言葉を便利に使う。
レオンが何か言う前に、フィアナが口を開いた。
「では」
声は静かだった。
静かすぎて、逆に冷えた。
「私が差分の説明を求めるたび」
「損耗だ、冬だ、盗賊だ、流民だと並べてきたのも」
誰も答えない。
「私が現物確認を増やそうとした時」
「今は人手が足りませんと止めたのも」
副書記の喉が動く。
「王都へ無様な数字は見せられません、と言ったのも」
その言葉で、レオンは少しだけ理解した。
フィアナはきっと、何度もこの類の言葉を聞いてきた。
現場のためだ。
家のためだ。
体面のためだ。
そう言われ続けて、届かない場所を背負わされてきた。
徴税担当はなおも言う。
「お嬢さまも、本当はご存じだったはずです」
「綺麗な理屈だけでは領地は持ちません」
フィアナは男を見た。
薄灰の瞳が冷たい。
「知っていたのは、領地が苦しいことだけです」
「ですが私は、領民を削って帳面を整える許可を出した覚えはありません」
そこで一度、言葉が切れる。
それでも彼女は止まらなかった。
「私が見落としたのではない」
「あなた方が、見せなかったのですね」
副書記が目を逸らす。
徴税担当だけが口元を固くした。
フィアナの声はわずかに低くなった。
「それを慣例と呼ぶなら」
「この領地は、慣例で壊れたのです」
短い。
だが、その一言が部屋の空気を変えた。
レオンはそこで初めて、机の上の木板を出した。
村長から借りた、配給日の刻みだ。
三人の顔色が変わる。
「これが村の記録だ」
レオンは木板を机の中央へ置く。
「文字じゃない」
「でも、飢えないために残した数だ」
副書記が苦く言う。
「そんなもの、正式記録では――」
「正式記録の方が薄められてるから、こっちを持ってきた」
レオンは遮った。
「お前たちの言う慣例は分かった」
「でも、それで済ませるつもりはない」
徴税担当が鼻で笑う。
「済ませぬ、と仰っても」
「我らを切れば、すぐに役所は止まります」
「北方は人が足りぬ」
「綺麗事だけで代わりが生えますか」
脅しだった。
しかも筋の悪い脅しではない。
実際、人は足りていない。
切れば痛む。
それは事実だ。
だからこそ、多くの組織はここで折れる。
レオンは木板の刻みを見下ろしたまま答えた。
「痛むだろうな」
「でも、腐ったまま回す方が高くつく」
副書記が口をつぐむ。
徴税担当の男だけが、まだ不敵さを残していた。
その顔が、次の一手を教えてくれる。
たぶんこいつは、まだ一番深いところを隠している。
その時、壁際のセリスが口を開いた。
「昨夜封じた役室の目録確認が進んでいます」
「帳簿の不足分も、いくつか見えてきました」
徴税担当の視線が一瞬だけ揺れた。
レオンはそれを見逃さない。
「次で終わりにする」
「逃げ道を塞ぐ」
そう言うと、セリスが静かに一礼した。
準備はできている、という顔だった。




