第32話 約束
村長は、レオンがもう一度こちらへ向き直ったのを見て、少しだけ眉を上げた。
集会小屋の前には、いつの間にか人が増えている。
老人。
女。
子ども。
皆、少し離れて見ていた。
近づきすぎない。
でも、聞き逃す気もない距離だ。
レオンは一歩だけ前へ出た。
大声は出さない。
この村では、声の強さより言葉の重さが見られる。
そんな空気がある。
「聞いた」
それだけ言うと、風の音が少しだけ大きく感じた。
「帳面と合わない話も、配給が途中で減る話も」
「訴えても変わらなかった話も」
村長は黙っている。
周囲も同じだった。
「だから、領都へ戻ったら切る」
短く言う。
今度は、空気が動いた。
村長の目がわずかに細まる。
後ろの誰かが息を呑む音がした。
レオンは続ける。
「倉庫だけじゃない」
「帳面を触った側も、配給を薄めた側も、領都の職から外す」
「そのままにはしない」
村長はすぐには返さなかった。
長い沈黙のあと、ようやく口を開く。
「……言うのは簡単ですな」
「そうだな」
レオンは否定しない。
「だから、言ったことは俺の首にもかかる」
「戻って何もしなければ、今日の言葉がそのまま嘘になる」
フィアナが隣でわずかに息を止めた気配がした。
レオンはそのまま言葉を切らない。
「飢えた村に、適当に慰めを置いて帰る気はない」
「足りない分を明日全部埋めるとも言わない」
「でも、薄めた人間は止める。これはやる」
風が外套を鳴らす。
誰もすぐには喋らない。
村長がようやく言う。
「王族が、そこまで言い切るのは珍しい」
「珍しいかもな」
「後で、聞いていないと言われることも多い」
「なら、覚えててくれ」
「俺も忘れない」
村長はしばらくレオンを見ていた。
その目にはまだ不信がある。
当然だ。
何年も削られてきた村が、たった一度の言葉で軽くなるわけがない。
だが、完全な拒絶でもなくなっていた。
「お嬢さま」
村長が今度はフィアナへ向く。
「あなたも同じおつもりで」
フィアナは少しも逸らさなかった。
「はい」
短い返答だった。
けれど、この人が“はい”と言った時は強い。
「領都へ戻り次第、関係者を止めます」
「村の話も、今日の記録も、その場で使います」
村長は小さく頷いた。
信じたわけではない。
ただ、今までの“確認します”や“善処します”とは違うと測ったのだろう。
壁際にいた痩せた女が、ためらいがちに言う。
「……本当に、切るんですか」
レオンはそちらを見る。
「本当に切る」
「ただし、今日聞いた話を、そのまま一人の怒りで終わらせない」
「数字と証言で固めて逃がさない」
その答えは、自分に向けたものでもあった。
怒りだけで動くつもりはない。
だが、動かない理由にも使わない。
フィアナが少しだけこちらを見る。
横顔だけで分かる。
彼女は今の言葉の重さを測っている。
王族の口約束ではなく、自分を縛る言葉として出したかどうか。
たぶん、そこを見ている。
村長が息を吐く。
「……半分だけ、期待しておきます」
それは不遜でも皮肉でもなかった。
この村が出せる、今の最大限に近い言葉だった。
レオンは小さく頷く。
「それで十分だ」
完全に信じろとは言えない。
そんな資格はまだない。
集会小屋の前を離れる時、扉の陰から覗いていた子どもが一人、すぐに身を引っ込めた。
さっきと同じ子だろう。
顔色は悪い。
けれど目だけはまだ死んでいない。
それを見て、レオンは少しだけ顎を引いた。
村を出る直前、フィアナが馬を並べてくる。
「殿下」
「何」
「……ああいう言質を、あの場で置くとは思いませんでした」
「置かない方がよかったか」
「いいえ」
彼女はすぐに否定した。
「ただ、あれで後戻りはしにくくなりました」
「領都へ戻れば、今日の言葉に追われます」
「そのつもりで言った」
フィアナは少しだけ黙る。
それから前を向いたまま言う。
「やはり、変な方ですね」
「悪口か」
「半分は」
「半分は、褒め言葉です」
その言い方が、昨日より少しだけ柔らかい。
ほんの少しだ。
それでも十分だった。
北道を戻る。
日はもう傾いている。
奥の村には短く触れただけだった。
だが、話の形は同じだった。
配給は来る。
けれど少し足りない。
訴えても薄まる。
一つの村の恨みではない。
領地の病だ。
領都の城壁が見えてくる頃には、空が暗み始めていた。
門前で馬を降りる。
冷えた石畳に靴音が響く。
セリスがすでに待っていた。
黒い外套の裾を押さえたまま、こちらを見る。
「お帰りなさいませ」
「ただいま」
「顔が悪いですね」
「村を見てきたからな」
「それは結構です」
セリスの視線がフィアナへ移る。
一瞬で何かを読み取ったらしく、声を少しだけ低くした。
「状況は」
レオンが短く答える。
「黒寄りだ」
「今夜から呼ぶ」
セリスは頷いた。
余計な確認はしない。
フィアナが続ける。
「倉庫、副書記、徴税側。少なくともこの三つは止める前提で」
「原本はそのまま押さえてください。逃げられると厄介です」
「承知しました」
やり取りが早い。
もう、視察前の段階ではない。
紙の上の疑いだったものが、村を見て戻ったことで形になった。
ここから先は、取り調べだ。
レオンは城壁の向こうに沈みかけた空を一度だけ見た。
約束は置いてきた。
なら、今夜のうちに自分の側から逃げ道を消すしかない。
「会議室を使う」
「整えてあります」
セリスが言う。
「旧役人たちには、まだ理由を伏せたまま待機を命じております」
「助かる」
「仕事ですので」
その返しに、レオンは少しだけ息を吐いた。
仕事。
そうだ。
ここからは、もうそれでいい。
村の前で置いた言葉を、領都で現実に変える。
その最初の夜が始まる。
会議室の扉の前で、フィアナが一度だけ足を止めた。
「殿下」
「何」
「今日の言葉、忘れないでください」
「忘れないよ」
「ええ。だから申し上げました」
彼女はそれだけ言って、先に扉へ手をかける。
冷たい木の向こうでは、呼ばれた者たちがもう待っているはずだった。
今度は帳面だけでは終わらない。
村で置いた約束の分だけ、領都の夜は重くなる。




