第28話 数字だけでは足りない
夕方には、外の風がさらに冷たくなっていた。
実務室の窓には薄く曇りがつき、領主館の廊下を歩く足音も早い。
皆、夜の前に片づけるべきことを抱えている。
それでもレオンは、机の上の紙からすぐには離れなかった。
数字は見えた。
線も見えた。
複数の机をまたいで、少しずつ抜く形も分かった。
だが、それで終わりではない。
「まだ顔が悪いですね」
壁際でセリスが言う。
「いい顔になる要素がない」
「それはそうです」
彼女は平然と返した。
フィアナは窓際で、村名の並んだ札を選り分けていた。
紙ではなく現場を見る段階へ、もう頭を切り替えているらしい。
レオンはその背へ向けて言う。
「視察に出る」
フィアナは振り返る。
驚きは薄い。
予想していたのだろう。
「どこを」
「まず北道沿い」
「二村あります」
「どっちも行く」
レオンが言うと、フィアナは少しだけ考えた。
「一日では足りません」
「分かってる」
「道は荒れています。領都の外へ出れば、見た目以上に進みません」
「それも分かってる」
フィアナはそこで、わずかに眉を上げた。
「今日は随分と“分かってる”が多いですね」
「言われ慣れたからな」
「誰にです」
「主に君に」
一瞬だけ間があった。
それからフィアナは、本当にほんの少しだけ視線を逸らした。
昨日までならなかった反応だ。
小さすぎるが、それでも前進だった。
「……では、改めて申し上げます」
彼女は札を机へ置く。
「紙の上だけで首を飛ばさない判断は妥当です。村側の受け取りと、途中の保管状況、関所通過後の流れを見なければ、相手は必ず逃げます」
「俺もそう思う」
「ただし」
フィアナの目が真っ直ぐ向く。
「領民は、殿下を簡単には信用しません」
「だろうな」
「紙を持った王族が来た、としか見ない可能性もあります」
「それもだろうな」
「それでも行かれるのですね」
レオンは少しだけ肩をすくめた。
「数字だけでは足りないから」
短い答えだった。
けれど本音でもあった。
帳面は嘘を隠す。
同時に、帳面だけでは人を救えない。
誰に届かなかったのか。
どこで止まったのか。
何を諦めて、何を恨んでいるのか。
それは村へ行かなければ見えない。
フィアナは数秒黙っていたが、やがて静かに言う。
「私も同行します」
セリスがすぐに視線を上げた。
「フィアナ様ご自身が?」
「村側は私の顔を知っています。殿下だけでは、余計な警戒を招きます」
レオンも頷く。
「その方がいい」
「私がいなければ、殿下は北道の二村で半日は失います」
「ひどい言い方だな」
「事実です」
いつもの調子だった。
だが、今は昨日より少しだけ角が柔らかい。
レオンは机の紙を揃えた。
「セリスは残ってくれ」
「承知しております」
返答は早い。
「原本の保全と、欠けている控えの洗い出しを進めます。領都内で動く者も必要でしょう」
「頼む」
「はい」
セリスは短く頷いたあと、机上の紙へ目を落とす。
「殿下」
「何」
「今の段階で誰かを追い詰めすぎない方がよろしいかと」
「分かってる」
「分かっておられる顔ではありません」
「便利だな、それ」
「何度目でしょう」
少しだけ、実務室の空気が緩んだ。
ほんの一瞬だけだが、それで十分だった。
フィアナが地図を広げる。
「出るなら明朝です。今日はもう遅い」
「護衛は最小限でいい」
「最小限にはしません」
即答だった。
「村へ行くだけでも、今のフェルドでは安全とは言えません。見せたいのは現実であって、襲撃の隙ではありませんので」
「……分かった」
「素直ですね」
「ここで張り合う方が無駄だろ」
フィアナは短く息を吐く。
ため息ではない。
たぶん、了承の代わりだ。
彼女は地図の北側を指した。
「まず一つ目は、北道沿いの手前の村。ここは配給記録と実人数のずれが大きい」
次に、もう一つ奥を指す。
「二つ目はその先。こちらは村へ届いた量そのものが怪しい。途中で抜かれているなら、痕が残っている可能性があります」
レオンは位置を覚える。
領都から近いわけではない。
紙の上で見るより、ずっと遠いのだろう。
「馬で?」
「途中までは。そこから先は道次第です」
「冬前にこの距離か」
「ようやく実感が湧きましたか」
「少しは」
フィアナはそれ以上言わなかった。
だが、最初の頃のような突き放し方でもなかった。
実務の話を重ねた分だけ、互いに相手の使い道が見え始めている。
それは信頼ではない。
けれど、ただの不信とも少し違ってきていた。
夜が深まり、準備の指示が館内へ飛んでいく。
馬。
防寒具。
携行食。
村向けの簡易名簿。
関所控えの写し。
必要なものだけを抜き出す作業は、妙に落ち着いた。
前世でもよくやった。
壊れた流れの中で、次に見るべきものを一つに絞る仕事だ。
その途中で、フィアナがふと手を止めた。
「殿下」
「何」
「明日、村で何をなさるおつもりですか」
「見る」
「それだけですか」
「聞く」
「それだけで済むなら苦労しません」
たしかにそうだ。
レオンは少し考えてから答える。
「紙の上で消えたものが、どこで消えたか確かめる。村へ届いてないなら、その場で誰かの言い訳を一つ潰せる」
「……ええ」
「それと、村の人間が何をどこまで知ってるか見る。知らないなら知らないでいい。変に誘導もしない」
フィアナは小さく頷く。
「その方がいいでしょうね。今の段階で答えを持って行けば、向こうも構えます」
「君も同じ考えか」
「仕事の話ですので」
その言い方に、レオンはわずかに口元を緩めた。
夜の最後、紙束は三つに分けられた。
領都へ残すもの。
持って行くもの。
帰ってから突き合わせるもの。
その作業が終わる頃には、暖炉の火もだいぶ小さくなっていた。
実務室を出る直前、フィアナが扉のところで立ち止まる。
「殿下」
「何」
「明日、村で嫌われることは覚悟しておいてください」
「領都でも大して好かれてないだろ」
「領都の比ではありません」
「だろうな」
「それでも、行かれるのですね」
同じ問いだった。
けれど今度は、確認というより念押しに近い。
レオンは短く答える。
「行くよ」
フィアナは数秒だけ黙り、それから静かに頷いた。
「では、明朝。南門で」
彼女はそれだけ言って去っていく。
灰銀の髪が、廊下の薄い灯りの中で冷たく揺れた。
レオンはその背を見送り、手元の写しを一枚だけ持ち直す。
帳面の中で消えた穀物。
複数の手で薄められた数字。
そして、その先にいるはずの飢えた村。
紙の上では、もう十分に黒かった。
だが、本当に切るべき相手を逃がさないためには、まだ外の寒さを踏まなければならない。
明日、門の外へ出る。
そこから先で、この領地がどこまで壊されているのか。
ようやく、数字ではない形で見えてくるはずだった。




