第25話 数字の違和感
小箱から出された帳面は、見た目だけならよく整っていた。
革表紙は擦れている。
紙の端も少し黒ずんでいる。
だが中身は、乱雑に投げ込まれた記録ではない。
日付。
搬入。
搬出。
残量。
必要最低限の項目は揃っていて、字も極端には崩れていなかった。
だからこそ、レオンは最初の数頁をめくった時点で少し嫌な気分になった。
「綺麗すぎるな」
机の向かいで、フィアナが視線を上げる。
「整っている方が都合が悪いのですか」
「整ってること自体はいいよ。ただ、崩れてる現場にしては、整い方が不自然だ」
実務室の窓の外はもう暗い。
暖炉の火は弱く、紙をめくる指先が少し冷える。
フィアナが出したのは、倉庫の出納帳と、領都周辺への配分控えだった。
本当に最低限だけだと分かる量だ。
それでも、倉庫で見た薄さと合わせるには十分なはずだった。
レオンは出納帳を指で追った。
搬入量。
搬出量。
残量。
数字だけなら成立している。
成立しているように見せるために、きれいに並んでいるとも言えた。
「ここ」
指先を一か所で止める。
「この週、難民が増えたんだよな」
「ええ。北道側からまとまって流れてきた時期です」
「なのに、倉庫の減り方が急すぎない」
フィアナはすぐには答えなかった。
代わりに、自分の控えを引き寄せる。
「粥場へ回した分があります」
「それは分かる。でも、その増え方と合わない」
レオンは帳面を少し回して彼女へ向けた。
「この三日間だけ、減り方が急に丸い。十、二十、十五。こういう崩れた現場の数字って、もう少し歪むことが多い」
「……丸い?」
「たとえば、慌てて出した荷なら半端が出る。破袋もある。詰め替えもある。人が疲れてるなら、なおさら綺麗に揃わない」
フィアナの薄灰の瞳が帳面へ落ちる。
レオンは続けた。
「でもここは、綺麗に減ってる。綺麗に減りすぎてる。誰かが後から見て、説明しやすい数字を置いた感じがある」
前世で何度も見た。
実態がぐちゃぐちゃなのに、最後に帳尻だけ整えた表だ。
責任を追われた時のために。
上へ出すために。
怒られない形へ寄せるために。
人は追い詰められるほど、説明しやすい数字を作りたがる。
フィアナが静かに言う。
「偶然では」
「一か所ならそう思う」
レオンは頁を戻し、さらに二つ前の月を開いた。
「でも、ここもだ。減り方が似てる。違う月なのに、同じようなところで、同じくらいの丸さになる」
フィアナが少しだけ身を乗り出す。
警戒している時の距離ではなく、仕事を見る時の距離だった。
「……損耗としてまとめた可能性は」
「ある。だからまだ断定はしない」
レオンは頷く。
「ただ、自然な損耗なら癖が変わる。寒さが強い時期、流民が増えた時期、兵舎へ多く回した時期で、ずれ方が同じなのは変だ」
フィアナは黙ったまま頁を見つめた。
その横顔に、昨日までの刺すような冷たさとは別の硬さが混じる。
セリスが壁際から口を開く。
「王都へ上がる報告向けに、見栄えを整えた数字、ということですか」
「そこまではまだ分からない」
レオンは首を振った。
「でも、現場の記録というより、説明用の数字に寄ってる」
「嫌な言い方ですね」
フィアナがぽつりと返す。
「だいたい、当たる時ほど嫌な言い方になる」
そう返すと、彼女は一瞬だけ黙った。
怒るかと思ったが、そうではなかった。
代わりに、別の束から村配分の控えを一枚抜き出してくる。
「こちらを見てください。北道沿いの村へ回した分です」
並んだ村名。
人数。
予定量。
実際の搬出量。
こちらも最低限だ。
だが倉庫の出納帳と突き合わせると、少し妙な線が浮いてくる。
レオンは紙の上で指を止めた。
「この日、倉庫では二十減ってる。でも村側の控えだと、届いたのは十二」
「兵舎へ回した可能性は」
「なら兵舎控えにも残る」
「難民側の臨時出しは」
「それも別札で切るはずだろ」
フィアナが、今度ははっきりと沈黙した。
レオンはさらに一枚めくる。
また同じだ。
倉庫では減っているのに、村側の受け取りが足りない。
誤差と言い切るには、何度も続く。
「……殿下」
フィアナが低く言う。
「何」
「あなた、こういうものを見るのに慣れておいでなのですね」
率直な問いだった。
レオンは少しだけ苦笑する。
「慣れたくて慣れたわけじゃないよ」
前世の職場で、誰かが綺麗にした数字の後始末を何度もやった。
合っているように見える表の、合っていない空気を嗅ぐのは得意になってしまった。
得意になったところで、嬉しい技能ではない。
「崩れた現場には、崩れた跡が残る」
レオンは帳面を軽く叩いた。
「でもこれは、跡の残り方が変なんだ」
フィアナの指先が、机の上の紙の端を押さえた。
「私も、減っていること自体は分かっていました」
声は静かだ。
けれど、その下に悔しさがある。
「ただ、不作と盗賊と流民と兵舎不足が重なりすぎて、どこまでが本当の損耗なのか、切り分けきれなかった」
「そこへ後から整えた数字が乗ると、なおさら見えにくくなる」
「ええ」
短い肯定だった。
レオンは帳面を閉じず、さらに何頁か先を見た。
そして、一つの欄で止まる。
「これ、誰が書いた」
フィアナが覗き込む。
「倉庫の副書記です。最近はその者が多く」
「字が違う」
「違う?」
「帳面全体は同じ流れなのに、ここだけ筆圧が違う。慌てて追記した感じでもない。あとから、整った字で埋めた跡に見える」
フィアナは数秒、その欄を見つめた。
それから小さく息を吐く。
「……そこまでは見ていませんでした」
「見る余裕がなかったんだろ」
「言い方が優しいと、逆に腹が立ちますね」
「悪かった」
「今のは半分本気です」
半分だけならいいのかと、レオンは少しだけ思う。
だが、昨日までなら返ってこなかった種類の言葉だった。
実務室の扉が叩かれ、使用人が追加の蝋燭を持ってくる。
火が一つ増えるだけで、紙の影が濃くなった。
フィアナは新しい明かりの中で、もう一度帳面へ視線を落とした。
「では、何から崩しますか」
その言い方に、レオンは少しだけ目を上げる。
「崩す?」
「整えた数字をです。見せかけの形から順に」
敵意はない。
試す響きも、昨日より薄い。
純粋に仕事の続きを聞いている声だった。
レオンは出納帳の横へ村配分控えを並べた。
「まず、搬入と搬出をぶつける」
「そこまでは私も考えました」
「次に、受け取り側をぶつける。兵舎、村、門外」
「はい」
「それで足りなければ、関所を通った荷そのものを見に行く」
そこまで言ったところで、フィアナの目がわずかに動いた。
「関所まで?」
「数字の違和感は見えた。でも、まだ中身が足りない」
レオンは机上の一か所を指した。
「この日、少なくとも三十袋ぶんくらいが帳面の途中で薄くなってる」
フィアナはその数字を見た。
そして、初めてはっきりと眉を寄せる。
「三十……」
「偶然で消える量じゃない」
暖炉が小さく鳴る。
実務室の空気は冷えたままだったが、今は別の意味で張っていた。
倉庫が薄い。
それはもう見た。
だが、どこで薄くなったのかが少しずつ見え始めている。
レオンは次の紙へ手を伸ばした。
「フィアナ。搬入の控え、もっとあるか」
彼女は即答しなかった。
けれど昨日のような拒絶もなかった。
短い沈黙のあと、机の脇の束へ手を伸ばす。
「あります」
そう言って出された次の帳面は、さっきの二冊より少し厚かった。
「ただし、これで終わりではありません」
「分かってる」
「その中身を見て、もっと面倒になるかもしれません」
レオンは帳面を受け取りながら小さく頷いた。
「たぶん、もうその段階に入ってる」
頁を開く。
そこには、倉庫の数字だけでは隠しきれない、別の流れが眠っている気配があった。




