第23話 噛み合わない二人
午後の実務室は、朝よりさらに慌ただしかった。
紙の束が増え、使いが出入りし、窓の外では荷車の軋む音が絶えない。
それでもフィアナの机の周辺だけは不思議と乱れて見えなかった。
散らかっているのではなく、流れている。
その机を挟んで、レオンとフィアナは向かい合っていた。
「見せられる範囲の現場は見ていただきました」
フィアナが言う。
「では、殿下もお疲れでしょう。今日のところは――」
「帳簿は?」
言葉を切ったのはレオンだった。
フィアナのまなざしが冷える。
「早いですね」
「遅い方だと思ってる」
「こちらは、まだ殿下を信用しておりません」
「知ってる」
即答すると、フィアナは一瞬だけ言葉を失ったような顔になった。
だが、すぐに表情を戻す。
「でしたら話が早いですね。信用できない相手へ、領内の数字を無条件で渡す気はありません」
「無条件ではないよ」
「何が違いますか」
「俺は、ここで責任を負う立場にいる」
その言葉に、フィアナの目がわずかに細くなる。
「王命を受けて来られたからですか」
「それもある」
「では、責任が重くなれば王都は支援してくださるのですか」
「それは別問題だ」
「別ではありません」
今度ははっきり、彼女の声に感情が乗った。
「数字だけ持ち帰り、事情も見ずに“削れ”“止めろ”“無駄だ”と言われたことは一度や二度ではありません。王都の書式に合わないというだけで、現場の判断を誤り扱いされたこともあります」
机の上の紙を指先で押さえる。
爪が白くなるほどではない。
けれど抑えているのが分かる。
「帳簿は刃になります。持つ側が現場を知らなければ、なおさら」
レオンは黙って聞いた。
たぶん、これはただの拒絶ではない。
経験から来る拒絶だ。
実際に何度も切られてきた人間の反応だ。
「俺が、同じことをすると?」
「可能性は高いと考えます」
「率直だな」
「ここで濁しても意味がありません」
セリスが壁際で静かに口を開く。
「フィアナ様。殿下は王都の報告を整えに来たのではありません」
「それはセリス殿のお考えですか。それとも殿下のお言葉ですか」
空気がひやりと張った。
フィアナは失礼な言い方をしたわけではない。
だが、はっきり線を引いた。
セリスはセリスで、すぐに感情を返さない。
「殿下ご本人の言葉でなければ意味がない、ということですね」
「ええ」
レオンは小さく息を吐いた。
間に立たせるのは逆効果だ。
「じゃあ、俺が言う」
フィアナが真っ直ぐこちらを見る。
「数字を見たいのは、王都へ綺麗な報告を上げたいからじゃない。どこが腐っていて、どこがまだ持つのか、自分の目で切り分けたいからだ」
「その結果、切るのは誰ですか」
「まだ決めない」
「そうやって曖昧にされるのが一番困ります」
「曖昧じゃない。今決めつけないってだけだ」
レオンは机へ片手を置いた。
「現場を見た。あなたが回してるのも分かった。でも、それだけで全部は判断できない」
「では、現場より紙を信じると?」
「逆だよ」
声は上げない。
その代わり、言葉を切らずに置く。
「現場を見たから、紙が必要なんだ」
フィアナが黙る。
「倉庫は薄かった。
炊き出しは綱渡りだった。
兵舎も余裕がない。
それなのに、表向きの説明だけ整ってる場所が多すぎる」
レオンは彼女を見た。
「俺は、現場を守るために数字を見たい」
その言葉は半分本心で、半分は賭けだった。
フィアナに届くかは分からない。
だが、取り繕うつもりはなかった。
「守る、ですか」
彼女の声は少し低い。
「その言葉を軽く使う方は多いです」
「軽く言ってない」
「殿下は失敗しても王都へ帰れます」
そこだけ、鋭かった。
レオンはすぐには返さなかった。
それが事実だからだ。
第三王子。
王命。
左遷同然の赴任。
それでも最後には、自分には帰る場所がある。
少なくとも、この領地の人々よりは。
「……そうだな」
認めると、フィアナの瞳が一瞬だけ揺れた。
否定されると思っていたのかもしれない。
「でも」
レオンは続ける。
「帰れるからって、目を閉じていい理由にはならない」
「綺麗事です」
「分かってる」
「では」
「それでも、見ないまま責任だけ取るふりはしたくない」
沈黙が落ちた。
窓の外の荷車の音が、やけに近く聞こえる。
フィアナはレオンを見たまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……殿下は、不思議な方ですね」
「褒めてないだろ」
「ええ。まだ」
その“まだ”に、ほんの少しだけ昨日にはなかったものが混じる。
ただし距離は縮まっていない。
むしろ、本当にぶつかったからこそ、互いの線が見えた。
フィアナは机上の紙を一つまとめて脇へ避けた。
「私にも守るべきものがあります」
「知ってる」
「でしたら、簡単には渡せません。帳簿も、記録も、名簿も。数字は人を生かしますが、同時に殺しもします」
「だからこそ、隠しっぱなしにはできない」
「殿下は押し通すおつもりですか」
「必要なら」
そこで初めて、二人のあいだに正面から火花が散った気がした。
怒鳴り合いではない。
だが、どちらも引かない。
フィアナは数秒だけレオンを見つめ、それから静かに言った。
「分かりました」
意外な返事だった。
「ですが、こちらにも条件があります」
「聞く」
「帳簿は、現場から切り離して読まないでください」
「当然だ」
「読めない数字を読めたふりもしないでください」
「それも当然だ」
「そして、見た上で王都の理屈を持ち込むなら、その時点で話は終わりです」
レオンは頷いた。
「そっちも一つ約束してくれ」
フィアナの眉がわずかに動く。
「何でしょう」
「俺を王都の人間ってだけで、最初から全部同じ箱に入れないでほしい」
今度は、フィアナがすぐに返さなかった。
その沈黙だけで、図星なのだと分かる。
だが、それを責める気にはなれない。
むしろ当然だ。
フィアナは薄く目を伏せた。
「努力します」
「十分だ」
会話としては、それで終わりだった。
けれど本当の勝負は、ここからだ。
互いに相手を信用していない。
それでも同じ机につく必要がある。
その不安定な形が、ようやく見えた。
フィアナは机の脇へ置いていた鍵付きの小箱へ手を伸ばした。
指先が一度だけ止まる。
レオンはその動きを見て、次に来るものを悟った。
紙だ。
たぶん、この領地の腹の中に近いものが。




