第15話 止まった荷馬車
最初に見えたのは、道端へ不自然に寄った車輪だった。
その次に、割れた荷台。
さらに近づくと、横転まではしていないが大きく傾いた荷馬車が見えた。
片輪が深く泥へ取られ、車軸の一部が裂けている。
馬はもういない。
荷台の覆い布は半ばめくれ、積み荷がいくつか地面へ落ちていた。
護衛が馬を進める。
「待ってください、殿下」
止められる前に、レオンももう危うさを察していた。
襲撃後かもしれない。
罠の可能性もある。
だが、周囲は妙に静かだった。
隠れる気配がない。
血の匂いも薄い。
しばらく警戒したあと、護衛の一人が荷馬車の陰から人を見つけた。
三十代半ばくらいの男だ。
外套は泥だらけで、片腕に布を巻いている。
怪我というより、冷えで動かしづらくなっているように見えた。
「近づくな、とは言いません……もう盗るものもないので」
男は座り込んだまま、乾いた声で言った。
レオンは馬車から降りる。
護衛が嫌そうな顔をしたが、止めきれないと判断したらしい。
「何があった」
男はレオンの服装を見て、相手の身分に気づいたようだった。
一瞬だけ顔がこわばる。
「車軸です。昨日の昼にやられました」
「襲撃じゃないのか」
「最初は違います」
男は苦く笑った。
「道に取られて、直しているうちに夜が来た。そしたら、通りがかりに少しずつ持っていかれた」
少しずつ。
その言い方が、かえって生々しい。
盗賊団のような派手な襲撃ではない。
壊れて止まった荷を、通りがかりの誰かが少しずつ抜いていく。
そんな程度まで街道の秩序が薄くなっている。
落ちた荷を確かめると、塩袋と乾物、それに粗布だった。
北へ持っていくには重要だが、南の王都では目立たない品ばかりだ。
「護衛は」
「一人だけでした。馬を借りて、救援を呼びに行きました」
「戻ってない」
「ええ」
男は唇を湿らせた。
「戻ってこられないのか、戻る価値がないと思われたのかは分かりませんが」
レオンは荷台の割れ目を見た。
木は古い。
補修の跡も多い。
無理に使い続けた荷車だ。
「無茶な積み方をしたのか」
「無茶をしなきゃ儲けが出ません」
返ってきた言葉は即答だった。
「通行証、護衛代、宿代、途中の関所。全部払って、しかも北へ運ぶ荷は高く売れない。なら一度に積むしかないでしょう」
理屈としては正しい。
そして、こういう正しさは大抵ろくでもない結果を呼ぶ。
レオンは荷袋の数をざっと見た。
残っている分だけでも、村一つが助かるほどではない。
だが失えば確実に誰かが困る量だ。
「珍しいことじゃないのか」
護衛長へ向けて聞くと、男が代わりに笑った。
「珍しくないから、こうして置かれてるんです」
その笑いに力はなかった。
「大きな商会は、もっと強い護衛をつけます。損が出ても次があります。けど、こっちは違う。止まった時点で終わりです」
終わり。
街道の上で、一台の荷車が止まる。
それで商いが終わる。
その積み重ねが、北へ物が届かない理由になる。
レオンは道の両脇へ目を向けた。
轍は深い。
橋の板は浮き、側溝は崩れている。
王都で見た“少し疲れた道”の先にあるのは、こういう現実だった。
制度だけではない。
道も、護衛も、救援も、全部が半端に弱っている。
「この先の領はどこだ」
「もうフェルド領の外縁に近いです」
セリスが答えた。
「ここから先は、北へ運ぶ荷ほど危険が増します」
男は王家の一行を見て、ようやく相手の立場を飲み込んだらしい。
泥で汚れたまま頭を下げようとした。
「失礼を――」
「いい」
レオンは止める。
「荷は何日止まってる」
「一日半ほど」
「残った分は引けるか」
男は割れた車軸を見た。
それだけで答えは分かる。
無理だ。
レオンは少し考え、護衛長へ向いた。
「積める分だけ、うちの後ろの荷台へ移す」
護衛長が眉をひそめる。
「殿下、それは」
「全部じゃない。最低限だけ。北へ運ぶんだろ」
「はい、ですが護衛列の編成が」
「崩れるほど積まない。余裕のある分だけでいい」
強く命じたわけではない。
ただ、やらない理由の方が薄かった。
護衛長は一瞬だけ迷い、結局うなずいた。
完全な善意で動いたのではないだろう。
王子が見ている前で、放置の理屈を積み上げる方が面倒だと判断しただけかもしれない。
それでも十分だった。
荷の一部を移す間、レオンは男から話を聞いた。
途中で止まった荷。
救援の遅さ。
関所ごとの手数料。
北へ行くほど薄くなる宿場。
どれも単体なら致命傷ではない。
だが全部重なると、一本の商路が簡単に死ぬ。
「不作だけじゃないな」
作業を見ながら、レオンは言った。
「ええ」
セリスが隣で答える。
「北が弱っているのではなく、北へ届くまでの途中も弱っています」
それが一番まずい。
領地の中だけを立て直しても、入口の道が死んでいれば詰む。
荷移しを終え、一行が再出発するころには日が少し傾いていた。
男は何度も礼を言ったが、レオンは軽く手を上げるだけにした。
助けた、と言うほどのことはしていない。
壊れた流れの一部を少しだけ先送りしただけだ。
馬車へ戻ると、体に残った冷えが一気に出た。
座席に深くもたれながら、レオンは目を閉じる。
「嫌なものを見た」
「見たいと仰ったのは殿下です」
「そうだけど」
言い返す元気も少し薄い。
窓の外には、もう人影が増えていた。
旅人というには荷が多く、商人というには馬がない。
歩いて北へ向かう者たち。
逆に、南へ逃げるように下る者たち。
小さな流れが、道の上で交差している。
「……人も動いてるな」
「はい」
セリスの声が少し低くなる。
「フェルド領都の周辺で、流民が増えているという報告はありました」
報告はあった。
でも、紙に書かれたその一行より、窓の外の背中の方がずっと重かった。
大きな荷を背負う女。
痩せた老人。
抱きかかえられた子ども。
領都はまだ見えない。
それなのに、そこへ入れない人間の気配がもう街道に出てきている。
レオンは窓の布を下ろした。
次に見るべき現場が、道の先にある。
そしてたぶん、それは今よりもっと面倒だ。




