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捨てられ第三王子は、信頼を取り戻したいだけなのに、崩壊寸前の辺境領と婚約破棄寸前の令嬢まで任されました  作者: 玖城イサ
第一章

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136/181

第136話 第一回市

 

 市の日の朝は、鍋場の朝と少し似ていた。


 まだ空が白みきる前から、人が動いている。

 机を運ぶ音。

 縄を張る音。

 木箱を置く音。

 井戸で水を汲む音。


 広場の石畳には、前の日のうちに簡単な区切りが打たれていた。


 鍛冶。

 木工。

 乾物。

 粗布。

 村の持ち寄り。

 そして、宿屋脇には温かい汁物の鍋。


 大きくはない。

 むしろ、意図して小さくしてある。


 でも空ではなかった。


 レオンは広場の端で、その動きを見ていた。


 木工場のミルが、ぎこちない手つきで台を据えている。

 鍛冶場の若い連中は、修理した鍬金具や釘束を並べていた。

 村から来た女たちは、乾豆や干した根菜を小分けにして置く。

 リナは宿の前へ薄い粥と湯を出す準備をしていた。


「思ったより埋まりましたね」

 とカイルが言う。


「埋まる大きさで切ったからな」

 とレオンは答えた。


 でも、それだけではない。


 北門の方から、予定より早く荷車が入ってきている。

 小さい。

 だが見慣れない馬具も混じっていた。


「来ました」

 とフィアナが言った。


 彼女の視線の先に、ノアがいる。

 その後ろに、若い商人が二人。

 さらに、塩を積んだ御者商人の顔も見えた。


 本当に来たのか、とレオンは思う。


 紙を流しただけ。

 しかも大げさではない文面だった。


 それでも人は来る。

 前と違うかもしれない、と一度思えば。


 ノアは荷車から飛び降りるようにして近づいてきた。


「おはようございます、殿下」


「早いな」


「早く来ないと、いい場所を取られそうだったので」

 ノアは笑う。

「ほら、もう埋まってる」


 たしかに広場は、朝の時点でもう少し賑やかだった。


 村の人間は、売る物がなくても見に来る。

 領都の人間は、買う物がなくても様子を見に来る。


 そしてその「見るだけ」の人間がいると、場は急に市らしくなる。


「鍛冶場はどこです」

 と若い商人の一人が言った。


「広場の奥です」

 とフィアナが答える。


「見ても?」


「売り物を冷やかすだけでなければ」


 若い商人は少しだけ笑い、素直に頷いた。

 その反応で、レオンは少しだけ力を抜く。


 完全に舐めて見に来た顔ではない。

 試す顔だ。


 それでいい。


 市は、始まってしまえば少し早かった。


 最初に動いたのは、鍛冶場の修理品だった。

 鍬の留め金。

 釘。

 小さい刃物。

 馬具の金具。


 次に木工の器。

 柄。

 箱。

 簡単な棚板。


 村の持ち寄りは量こそ少ないが、見る人間が多い。

 乾豆の出来。

 干し草の質。

 今年の畑の様子。

 そういう話が、品の前で自然に始まる。


 広場を歩く人間の手には、物より先に会話が増えていた。


「北谷はもう蒔いたのか」

「森縁はまだ半分だ」

「鍛冶場の火、夜も残ってるって本当か」

「この木椀、前のより軽いな」

「次の市はいつだ」


 次の市。


 その言葉を、レオンは二度聞いた。


 一度きりの物見ではない。

 もう次を数え始める声だ。


 それは想像していたよりずっと大きかった。


 昼が近づく頃には、リナの宿の前が混み始めた。


 湯を求める者。

 座る場所を探す者。

 馬に水をやる者。


「水、切らさないで」

 リナが裏へ向かって叫ぶ。

「木椀は返して! それ、宿の分だから!」


 騒がしい。

 でも死んだ騒がしさではない。


 生きている場の、少し雑な音だった。


 ドルクは見張りを広場の両端へ置いていた。

 前ほど肩に力が入っていない。

 揉めそうならすぐ寄れる位置で、でも客を威圧しない距離だ。


 マルタは鍋の前で、粥をよそいながら鼻を鳴らす。


「市の日まで腹は減るんですよ」


「知ってる」

 とレオン。


「なら、売り場だけ見て満足しないでください」


「そこまで薄情に見えるか?」


「たまに」


 その返しが少しだけおかしくて、レオンは肩で笑った。


 フィアナは広場を歩きながら、人の顔を見ていた。


 売れているか。

 売れていないか。

 それだけではない。


 領都の人間が、外から来た商人へどう目を向けているか。

 村の人間が、広場の真ん中へ立つことをまだ怖がっているか。

 外から来た側が、「もういい」と思う顔をしていないか。


 その見方が、やはり彼女らしいとレオンは思う。


「どうだ」

 と彼は近づいて聞いた。


 フィアナはすぐには答えなかった。


 広場の奥で、以前なら見なかった顔合わせが起きている。


 鍛冶師が外の商人と話している。

 村の女が宿屋娘と水の回し方を相談している。

 若い兵が、子どもに場所を空けるよう注意している。


 物が動いている。

 でも、それ以上に人が混じっている。


「……思っていたより、ずっと良いです」

 とフィアナは言った。


 珍しく、その言葉には少しだけ温度があった。


「物の量ではありませんね」

「人の流れです」

「戻ったというより、戻り始めたのが見える」


 レオンは頷いた。


 まさにそれだった。


 大商会が入ったわけではない。

 山ほどの荷が積まれたわけでもない。

 金が一日で溢れたわけでもない。


 でも、人が来る。

 見て回る。

 次を口にする。


 それだけで領地の景色は変わる。


 午後、広場の端で、塩商の御者がノアへ言った。


「前のフェルドなら寄らなかったな」


「でしょうね」

 とノア。


「でも今は、寄ってみてもいい」


 その一言を、レオンは少し離れたところで聞いた。


 寄ってみてもいい。


 大した褒め言葉ではない。

 王都の文なら、もっと綺麗に飾るだろう。


 でも今のフェルドには、それで十分だった。


 日が傾く前に、市は予定通り畳みに入った。


 夜まで引っ張らない。

 最初から決めていた線だ。


 机が片づき、残り物が箱へ戻り、広場の石畳が少しずつ見えてくる。


 それでも、終わった場所には見えなかった。


 むしろ、次にまた立つための形が残っている。


 実務室へ戻る頃には、簡単な控えがもう集まり始めていた。


 売れた数。

 余った数。

 外から来た荷。

 宿の利用。

 鍋の追加分。


 そして、もう一つ。


「これ」

 とヘルマンが渋い顔で紙を差し出した。


 レオンが見る。


 広場使用の名目。

 旧来の場所代。

 臨時通行札の確認料。

 宿泊控えに紛れた別の徴収。


 線が揃っていない。


 払った者もいれば、古い顔で通った者もいる。

 少なく払った者もいれば、多く取られた者もいる。


「……やっぱり出るか」

 とレオン。


 フィアナも紙を覗き込み、眉を寄せた。


「旧来の慣例が、まだ残っています」

「しかも市になると、それが余計に表へ出る」


 人が集まれば、金も集まる。

 金が集まれば、古い歪みも顔を出す。


 今日、市は立った。


 小さいが、ちゃんと立った。


 でも立ったからこそ、次の問題も見えた。


 レオンは紙を机へ置く。


「次は、取る銭の形だな」


 ヘルマンが鼻を鳴らす。


「ええ」


 フィアナも短く頷いた。


「今のままでは、また同じです」


 市場を立てただけでは足りない。

 そこへ乗る金の流れまで整えなければ、いずれまた誰かが抜く。


 広場の外では、まだ片づけの音が少し残っていた。


 今日は前に進んだ。

 でも、その音の向こうで、もう次の帳面が待っている。

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