第134話 まだ足りない信用
フィアナは、広場だけ見て物事を決める気にはなれなかった。
石畳の見栄えは整えられる。
机も並べられる。
風よけ板も出せる。
けれど市は、広場だけで立たない。
泊まる場所。
馬を置く場所。
水を汲む場所。
食べる場所。
揉めた時に止める人間。
どれか一つが欠けても、人は「もういい」と思う。
朝のうちから、彼女は宿屋通りへ向かっていた。
リナ・ハウゼンの宿は、領都の中ではまだ人の出入りが戻っている方だ。
扉を開けると、木の床が乾いた音を立てた。
煮込みの匂い。
洗いきれなかった酒の匂い。
それに、少しだけ新しい藁の匂い。
「ベルクライン様」
とリナが顔を上げる。
「朝から珍しいですね」
「聞きたいことがあるの」
とフィアナ。
「怖い話じゃなければいいんですけど」
「市を開く話よ」
リナの手が止まった。
驚いた顔はしたが、反対の顔ではなかった。
「……本当に?」
「その予定で動くわ」
「ただし、できるかどうかはまだ見ている」
リナは少し考え、視線を店内へ走らせた。
「客間は四つ」
「空いてる時なら、雑魚寝まで入れて八人」
「でも馬まで来るなら厩は足りません」
「あと、水」
やはりそこだ、とフィアナは思う。
「井戸が足りない?」
「数じゃなくて、回し方です」
リナは即答した。
「今の客数なら何とかなる」
「でも市の日に一気に人が増えたら、炊事と馬と客でぶつかる」
「風呂までは望まないでしょうが」
とフィアナ。
「飲み水と手洗いは要ります」
リナは肩をすくめた。
「旅人って、その二つがないだけで“やっぱり辺境だ”って顔しますから」
その言い方は、妙に正確だった。
王都の人間は大げさに文句を言う。
地方の人間は無言で次から来なくなる。
どちらも厄介だが、市として効くのは後者だ。
宿を出たあと、フィアナは広場の裏手を回った。
市場区画の脇には、まだ使える井戸が一つ。
ただし大きくはない。
祭りの時は何とか回ったが、定期に外客を入れるなら心許ない。
それに、通りの裏はまだ少し汚い。
祭りの時は一日で片づけた。
でも定期市となれば、毎回きちんと掃ける人間が要る。
「そこは回せます」
後ろから声がした。
振り返ると、マルタだった。
「鍋場の時ほどではありません」
「でも、誰が片づけるかを先に決めなきゃ、終わった後に皆いなくなります」
「分かっているわ」
「分かってる顔ですね」
マルタは言った。
「嫌な顔でもありますけど」
フィアナは少しだけ目を細めた。
「市は好き?」
「好きか嫌いかで言えば好きですよ」
マルタは笑わないまま答える。
「でも、好きだから回るわけじゃない」
「終わった後の汚れと、残り物と、揉め事を誰が拾うかまで決めて初めてです」
それも正しい。
だからフィアナは、次にドルクを呼んだ。
巡回隊の詰所は、朝の槍の音がまだ残っている。
「市の日だけ人を増やせますか」
と彼女が聞くと、ドルクはすぐ地図へ目を落とした。
「昼だけなら」
「夜は」
「薄い」
ドルクは短く答えた。
「酒が入って夜まで流れたら、今の人数じゃ面倒を見る方が先に削れます」
「広場だけなら?」
「広場と宿屋通り、北門前まで」
ドルクは指で線を引く。
「それ以上広げると穴が出る」
フィアナはその線を見た。
狭い。
だが、その狭さが現実だ。
今のフェルドは、領都全体を一度に賑やかに見せられるほど厚くない。
見せるなら、見せる範囲を絞るしかない。
午後、実務室へ戻ると、レオンが既に紙を広げていた。
「どうだった」
と彼が聞く。
「足りません」
フィアナは率直に答えた。
「宿も、水も、夜の見張りも」
「開くことはできます」
「でも外から大きく呼ぶのは早い」
レオンは嫌な顔をしなかった。
むしろ、最初からその答えを待っていた顔に近い。
「じゃあ、広げない」
フィアナは少しだけ眉を上げる。
「広げない?」
「見せる範囲を絞る」
とレオン。
「広場とその周りだけ」
「時間も昼まで寄りにする」
「夜へ伸ばさない」
「宿は余った枠だけ」
机の上には、簡単な線が引かれていた。
広場。
宿屋通り。
井戸。
木工場前。
北門。
回せる場所だけを輪にしてある。
「村の人間と、顔の見える商人を先に入れる」
レオンは続けた。
「最初から“北方中から来い”はやらない」
「まずは来ても崩れない形を見せる」
フィアナはその紙を見た。
大きく見せない。
でも空にも見せない。
実務的で、彼らしい。
「閑散としたら逆効果です」
とフィアナ。
「だから、埋まる大きさでやる」
「物が足りなければ」
「人を見せる」
レオンは短く言った。
「鍛冶場も木工場もある」
「村の余り物もある」
「全部はなくても、動いてる顔は出せる」
市場は、物の量だけでは決まらない。
誰が来て。
誰が見て。
誰が次も来ようと思うか。
そこまで見ている返しだった。
セリスが横から補う。
「“小さいが、止まっていない”」
「最初はその印象で十分です」
フィアナは頷きかけ、それでも一つだけ言った。
「ですが、それでも外から来る理由は弱いです」
「今のフェルドへ、わざわざ足を向けるほどの」
そこだけは、まだ紙の上で埋まらない。
宿は絞れば何とかなる。
衛生も手を決めれば回せる。
見張りも昼だけなら立つ。
でも、来る理由だけは別だった。
市場があるから来るのではない。
来る価値があると思うから市場へ来る。
レオンも同じところで止まったらしい。
彼は少しだけ考え、机の端を指で叩いた。
「理由を増やす」
「どうやって」
とフィアナ。
「今あるもので」
答えとしては雑だ。
でも、彼はこういう時、その後でちゃんと順番を出してくる。
数拍の沈黙のあと、セリスが小さく言った。
「今あるもので、人が外へ話したがるものなら」
そこで三人の視線が、ほとんど同時に重なった。
盗賊討伐。
治安再編。
公開査定。
辺境発の対外発信。
フェルドにはまだ足りないものが多い。
でも、前より足りなくなくなったものもある。
そしてそれは、外の人間にとっては「ここを通っても前よりましらしい」という理由になりうる。
フィアナは小さく息を吐いた。
足りない信用は、一度には作れない。
それでも、足りないまま座っているよりは、少しでも積みやすい形へ変えた方がいい。
問題は、その最初の看板を何にするかだった。




