第133話 市を開く理由
境の関所詰所から戻った翌朝、領都の空気は勝ったとも負けたとも言えない温度をしていた。
レオンは北門の上から外を見ていた。
道は変わらない。
泥があり、轍があり、その先に関所がある。
ただ、昨日までと少し違うのは、向こうが好き放題に押し切れる顔ではなくなったことだ。
通達そのものは、まだ残っている。
税も、完全には下ろせていない。
だが、古い協定を突きつけられたことで、隣領側も「正当な補修負担です」と言い切ったまま押し通すのは難しくなった。
持ち帰り。
再確認。
協議継続。
綺麗な言葉で言えばそうなる。
要するに、すぐには楽にならないということだった。
「嫌な引き分けでしたね」
とセリスが言った。
「引き分けならまだましだ」
とレオンは答えた。
「向こうの好きな形で終わらなかっただけ、昨日よりはましだろ」
「ええ」
セリスは頷いた。
「ただし、楽になったわけではありません」
「知ってる」
北門の下では、小荷車が二台、順番を待っている。
縄。
塩。
修理上がりの金具。
どれも小さい。
小さいからこそ、境で少し止められるだけで利益が死ぬ。
外へ向かう流れは、まだ細い。
なら、細いままでも別の流れを作るしかない。
その考えを口にしたのは、実務室へ戻ってからだった。
「市を開く」
紙を見ていたフィアナが顔を上げる。
「定期市ですか」
「そう」
レオンは頷いた。
「大きいものじゃなくていい」
「でも、決まった日に決まった場所で人と物が動く場は要る」
ヘルマンが眼鏡を押し上げた。
「いきなりですな」
「いきなりじゃない」
とレオン。
「必要なものは前から揃い始めてる」
鍛冶場の火。
木工場。
試験工区。
小口の便。
村ごとに少しずつ戻り始めた畑。
今のフェルドには、余るほどの品はまだない。
だが、動かせる品はある。
鍬の柄。
修理した金具。
乾豆。
粗い布。
木椀。
縄。
薬草。
そして、噂。
「物を売るだけじゃない」
レオンは続けた。
「人を呼ぶ理由が要る」
「領都へ来る日が決まれば、村の人間も合わせて動ける」
「商人も来やすい」
「何より、外から見た時に“止まってない領地”に見える」
フィアナは少し考えるように沈黙した。
それから、机の上の地図ではなく、窓の外の方を見た。
「市場は、領地の顔になります」
短い言葉だった。
でも、重さがあった。
「飢えた土地には、飢えた顔の市が立つ」
「荒れた土地には、荒れた顔の市が立つ」
「逆に言えば、そこを整えれば外の見方も変わります」
「君も賛成か」
「はい」
フィアナは即答した。
「ただし、開けばそれで終わりではありません」
「市は、領地の弱さもそのまま晒します」
そこは彼女らしかった。
レオンは頷く。
「分かってる」
だからこそ、考える価値がある。
以前のグランフェルは、市場の区画がありながら死んでいた。
店はあるのに品が薄い。
人はいるのに声がない。
あの半分死んだ空気を、レオンは来た日に見ている。
「今のままでも、細かい売り買いはしてます」
とフィアナ。
「ですが、場としてまとまっていません」
「村から来た者は必要な物だけ買ってすぐ帰る」
「領都側も、外から人が来る前提では動いていない」
「つまり」
とレオン。
「“出会う場所”がない、ということです」
その表現はしっくり来た。
物と物。
人と人。
領都と村。
職人と客。
商人と次の商人。
そういうものが偶然ではなく交わる場が、まだない。
「広場を使うか」
とレオン。
「祭りで使った場所が無難です」
フィアナは地図の一点を指した。
「通りの抜けもいい」
「鍋場で列整理をした経験もあります」
「見張りも置きやすい」
「宿屋からも近いですね」
とセリスが言う。
「外から来た者を、領都の真ん中へ迷わせずに済みます」
ヘルマンが鼻を鳴らした。
「昔は、あの辺りにもっと声がありましたな」
皆がそちらを見る。
「昔?」
とレオン。
「ええ」
ヘルマンは少しだけ遠い顔をした。
「大きな市ではありませんが、北道沿いの小商いが寄る日があった」
「塩、干魚、薬草、粗布、そのあたりです」
「冬と不正で死にましたが」
死んだものを、そのまま別の形で起こす。
悪くない、とレオンは思った。
全部を新しく作るより、前にあった流れを戻す方が、人も受け入れやすい。
「なら名前も大げさにしない」
とレオン。
「新しい何か、じゃなくて、戻す方でいく」
「定期市、で十分です」
フィアナが言った。
「言葉を膨らませるほど、空だった時に痛いので」
それも正しい。
夢を見るのは悪くない。
でも看板だけ立派で中が薄ければ、今のフェルドにはその方が傷になる。
レオンは机の端を指で叩いた。
「まずは小さく」
「村の余り物と、領都の加工品を合わせる」
「日にちを決める」
「外からも少しだけ呼ぶ」
「少しだけ、ですか」
とセリス。
「最初から大きくは呼ばない」
「でも身内だけでも駄目だ」
「外の目が少しは要る」
フィアナがその言葉を引き取る。
「外からの人間は、客である前に証人になります」
「良くても悪くても、持ち帰りますから」
「だから顔になる」
とレオン。
「はい」
そこまで言ってから、部屋は少し静かになった。
皆、同じことを考えているのだろう。
やる価値はある。
でも、開くだけなら誰にでも言える。
問題はその先だった。
外から人を呼ぶ。
それはつまり、外の目を通しても大丈夫な形にしなければならない、ということだ。
「宿は足りますか」
セリスが先に聞いた。
フィアナはすぐには答えなかった。
「……足りません」
「衛生は」
とレオン。
「十分とは言えません」
「見張りは」
「昼なら回せます」
とフィアナ。
「夜まで伸びると、まだ薄いです」
やはり、という感じだった。
レオンは立ち上がる。
「広場を見よう」
外へ出ると、風はまだ少し冷たい。
祭りの時に使った広場は、もう机も飾りも片づいていた。
石畳の上に、いつもの往来だけが戻っている。
でも前と違うのは、完全に死んだ場所ではないことだ。
木工場から運ばれる板。
鍛冶場へ向かう男。
塩袋を抱えた女。
小さくても、動きがある。
レオンは広場の端へ立ち、通りを見た。
ここへ、日にちを決めて、人を寄せる。
それができれば。
隣領に道を止められても、フェルドの中には別の流れが立つ。
けれど、その時だった。
広場の脇を通った旅姿の男が、足を止めもせずにぼそりと言った。
「今のフェルドで市か」
嫌味ではない。
ただ、率直な驚きだった。
そしてその率直さの方が、よほど効く。
レオンは男の背中を見送った。
やる価値はある。
だが、空振ればもっと広く笑われる。
フィアナが静かに言う。
「市を開く理由は十分あります」
「でも、来る理由はまだ足りません」
その通りだった。
開くと決めるのは簡単だ。
難しいのは、最初の一歩を「空振りだった」と言わせないことだった。




