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捨てられ第三王子は、信頼を取り戻したいだけなのに、崩壊寸前の辺境領と婚約破棄寸前の令嬢まで任されました  作者: 玖城イサ
第一章

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第131話 古い協定

 


 記録庫の空気は、春でも温くならなかった。


 紙と革の匂い。

 乾いた埃。

 奥へ行くほど薄暗くなる棚の列。


 フィアナは灯りを机へ引き寄せ、羊皮紙の端をめくっていた。


 古い紙は、少し乱暴に扱うだけで機嫌を悪くする。

 角が折れる。

 糸が抜ける。

 インクが剥がれる。


 人の取り決めに似ている、と彼女は思った。

 結ばれた時には重く見えても、放っておけばすぐ埋もれる。

 けれど消えたわけではない。

 誰かが必要として、ようやく棚の奥から引きずり出されるだけだ。


「こちらは違います」

 とヘルマンが言った。

「砦側の見張り順ですな」


「次を」

 とフィアナ。


 机の上には、境界路、冬道、関所、通行札、補修費。

 そうした語が入る束だけがいくつも積まれている。


 レオンは暖炉の脇に立ったまま、口を挟まなかった。

 ノアは途中で落ち着きを失いかけたが、セリスに目で止められている。


 外では鍛冶場の火がまだ生きているはずだ。

 工房区画の離れには、今日も人の荷がある。

 春耕も、水路も、止まらない。


 だからこそ、ここで時間を食うのは痛い。

 そして痛いからこそ、相手はこの税を今出してきた。


 昼の通達は、数字以上に腹立たしかった。


 フェルドがようやく人を呼び始めた時に。

 ようやく材が戻り始めた時に。

 そこへだけ、綺麗な名目で刃を入れてくる。


 昔なら、言い返す余地もなかった。

 弱っている側は通されるだけで礼を言わされる。

 それがここ数年のフェルドだった。


 でも今は違う。

 違うからこそ、雑に怒って終わらせたくなかった。


「ありました」

 とヘルマンが低く言った。


 フィアナが顔を上げる。


 古い革紐で綴じられた薄い束だった。

 表書きは半分消えかけている。

 だが見出しの一部が読めた。


 北境冬路相互通行覚え。


「それです」

 フィアナは思わず身を乗り出した。


 ヘルマンが慎重に紐を解く。

 中には二枚。

 本紙と、後年の追記らしい一枚。


 フィアナは本紙を押さえ、文字を追った。


 ――境界冬路は、両領の維持をもって通す。

 ――両領は、相互の登録荷車に対し、既定の関所料を超える臨時徴収を一方的に課さない。

 ――補修負担が発生する場合は、事前に通告し、境界実務の席を設けて協議する。

 ――境界修繕および民生維持に関わる資材・人足については、重複徴収を避ける。


 フィアナは息を止めた。


「……あります」

「一方的な上乗せを制する文が」


 ノアが一歩詰める。


「勝ちですか」


「まだ」

 フィアナは即座に言った。


 熱くなりかけた空気が、それで少し冷えた。


 ヘルマンが眼鏡を押し上げる。


「追記もありますな」


 そちらは十数年前の補足だった。

 豪雪で道が死んだ年、片側だけが勝手に足止めしたせいで両方が困った。

 その後の再確認文書らしい。


 ――境界路の追加負担は、両印ある協議書をもって施行する。


 フィアナはその一文を見つめた。


 これだけ見れば、十分に見える。

 今回の通達は明らかに、この文とぶつかる。


 だが、紙があるだけでは通らない。

 そういう場面を、彼女は王都でも見てきた。


「形式上は強いです」

 とフィアナは言った。

「少なくとも、向こうの通達はこれと整合しません」


「形式上は、な」

 とヘルマン。


 その一言で、熱がもう半段落ちる。


 そうだ。

 相手はローデリヒ・シュタンだ。


 法の穴を突く男が、こんな古い束の存在を知らないはずがない。

 知っていてなお出してきたなら、別の逃げ道も考えている。


「向こうはこう言うでしょう」

 とセリスが言った。

「これは古い覚え書きにすぎない」

「今の領主代には再確認されていない」

「あるいは、今回の徴収は関所料ではなく路補修の臨時負担で、別種だと」


「言うでしょうね」

 フィアナは紙を見たまま答えた。


「でも、ぶつける価値はあります」

「少なくとも、好き勝手に押し切れる形ではなくなる」


 ノアが舌打ちする。


「知ってて踏んだなら、最初から揉める前提じゃないですか」


「そうです」

 とセリス。

「こちらが嫌がって払うなら、そのまま通る」

「怒って騒げば、若さと未熟で片づけられる」

「だから、紙を見つけられてもまだ終わりではありません」


 フィアナはその通りだと思った。


 むしろ、ここからだった。

 古い協定は刃になる。

 だが、握る手が弱ければただの紙だ。


 彼女は本紙と追記の文をもう一度確かめる。

 文言。

 押印。

 年記。

 継ぎ目の傷。

 後から挿した別紙ではないか。

 都合のいい偽造ではないか。


 その疑いまで潰しておかないと、席では切り返される。


「効くなら、向こうは嫌がります」

 とレオンが初めて口を開いた。


 フィアナが顔を上げる。


「嫌がるなら、何か言い換えてくる」

「紙の解釈か、効力か、今の実務は別だって話か」

「どっちにせよ、ただ通達を出して終わりにはならない」


「はい」

 フィアナは頷いた。

「だから、これを持って怒鳴り込むのは駄目です」


「分かってる」

 とレオン。


 彼は机へ近づき、協定の一行を指で押さえた。


「こっちから正式な実務会談を申し入れる」

「税を下ろせ、じゃない」

「協定に基づいて、境界実務の確認をしたい、だ」


 ヘルマンが目を細めた。


「穏当ですな」


「穏当に見せる」

 とレオンは言った。

「向こうはたぶん、俺を辺境の若造だと思ってる」

「なら、そのまま席についた方が得だ」


 フィアナは一拍だけ黙った。


 怒りで押し返したい気持ちがないわけではない。

 彼女にも、それは分かった。

 でも今必要なのは、胸の温度ではなく、相手が断りにくい形だ。


「会談の根拠は、この協定の第三条と補足文」

 とフィアナは言った。

「一方的な追加負担ではなく、共同確認の形に引き戻す」


「そうだ」

 とレオン。


 セリスはもう紙を引いていた。

 文面の骨を先に置き、言葉の角を整えていく。


 正式なる申し入れ。

 境界実務協議。

 相互通行覚えに基づく確認。

 春季の補修負担および登録荷車の扱い。


 怒りは一行も入っていない。

 その代わり、断れば向こうが協定を軽く扱った形になる。


「席につかせられる」

 とノアが言った。


「席につかせるだけです」

 とフィアナは返した。

「勝てるとはまだ言えません」


 自分でも驚くほど、声は冷えていた。

 たぶん、それだけ腹が立っている。


 古い紙を探し当てたことで終わりではない。

 むしろ、ここから相手は本気で切り返してくる。


 それでも見つけられてよかった、とフィアナは思った。


 何もなければ、ただ払うか、怒るかしかなかった。

 今は違う。

 ようやく、こちらの言葉で席を作れる。


「これでいきます」

 と彼女は言った。


 レオンは短く頷いた。


「まずは向こうを座らせる」


 夜はもう深い。


 でも机の上の紙は、昼よりずっと冷たく、強く見えた。


 埃をかぶっていた文書が、今日の実務に戻ってくる。

 それだけで終わるなら楽だった。


 だが実際には、その紙をどう効かせるかまで問われる。


 フィアナは古い協定の束を、もう一度丁寧に綴じ直した。


 見つけたのは武器だ。

 勝ちではない。


 だからこそ、次の席は重い。

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