第129話 不機嫌な隣人
工房区画の灯が増えてから、北門まわりの空気は少しだけ忙しくなった。
朝のうちから、鍬刃を抱えた農夫が鍛冶場へ寄る。
木工場の前では、ミルがまだ大きすぎる鉋を抱えて戸板を削っている。
試験工区では、石工親子が受け石の位置を見直していた。
たった数人だ。
それでも、止まっていた場所へ人が入ると、領都の景色は目に見えて変わる。
「前より、門を通る荷が増えましたね」
とフィアナが言った。
「出る荷もな」
とレオンは答えた。
春耕で要る留め具。
木樋の補修に使う縄。
鍋場で減った塩の補充。
職人を受けるための寝具と炭。
どれも小口だ。
だが今のフェルドには、その小ささが大事だった。
大商いはまだ無理でも、細い流れなら作れる。
細い流れが通れば、次の人間は「ここはもう止まっていない」と考える。
その話をしていた時、ノアが北門から戻ってきた。
いつもの軽い足取りではない。
泥のついた靴のまま実務室へ入り、机へ紙を一枚置く。
「嫌な顔をされました」
と彼は言った。
「どこで」
とレオン。
「境の向こうです」
ノアは肩をすくめた。
「うちの荷を止めたわけじゃない。ただ、やたら長く見られた」
「何を運ぶ、誰へ渡す、誰が受ける。そこまで細かく聞く必要あるかってくらいに」
フィアナが紙を取る。
通行札の控えだった。
押印は問題ない。
だが端に、別の筆で小さな書き込みがあった。
――職人工房向け荷。今後も確認要。
「露骨ですね」
とフィアナ。
「露骨なくせに、まだ何もしてない顔をしてる」
ノアは椅子へ腰を落とした。
「で、その場で聞こえたんですよ」
「何が」
とレオン。
ノアは少し声を低くした。
「隣領の代官です。ローデリヒ・シュタン」
「長い鼻の、嫌味が服を着たような男でした」
「荷の後ろで、書記にこう言ってた」
一拍置いて、ノアはその口調を少しだけ真似た。
「――最近のフェルドは、身の程を忘れている」
「――流れるべきものが、流れなくなった」
部屋が静かになった。
流れるべきもの。
レオンはその言葉を頭の中で転がした。
物か。
人か。
たぶん、その両方だ。
ヘルマンが低く鼻を鳴らす。
「言い方だけは綺麗ですな」
「綺麗に言ってるだけだ」
とレオン。
「今までフェルドから、何が流れてた」
フィアナは控え棚から一束を引き抜いた。
冬前から春先までの売却控え。
税の穴埋めと冬越えのため、前の体制が手放していた品の一覧だ。
安値の木材。
未加工の石。
鍛え直せば使える鉄屑。
そして、その中には人の名まで混じっていた。
石工見習い、二名。
木工補助、一名。
鍛冶手伝い、一名。
いずれも「紹介先あり」で領外へ出された記録だ。
「ひどいな」
とレオンは言った。
「食わせられなかったのでしょう」
フィアナは静かに答えた。
「働き口として外へ流した形です」
「表向きは」
「本当にそれだけなら、こんな値では出さない」
とセリスが言った。
「弱った土地から、使える手と材を安く抜く」
「向こうにとっては、その方が都合が良い」
ノアが机へ肘をついた。
「物も人も、向こうは安く拾えたんです」
「こっちの材を買い叩いて、自分の領で値をつけ直す」
「こっちの見習いを、向こうの工房へ安く入れる」
「フェルドが痩せるほど、隣の倉と炉が太る」
「しかも、こっちが弱っていれば交渉もいらない」
とセリス。
「通すか通さないかではなく、拾うだけで済みますから」
レオンは窓の外を見た。
工房区画の端で、ミルが戸板を運んでいる。
ユハンは火の前で鍬刃を返していた。
あの程度の人数でさえ、向こうには目障りなのだろう。
弱っているだけの土地なら扱いやすい。
だが、自分で手を増やし始める土地は、隣の利を削る。
「復興ってのは、立て直すだけじゃないんだな」
とレオンは言った。
フィアナが目を上げる。
「ええ」
「周りの取り分も変えます」
その言葉が落ちた時、外で短い足音が止まった。
カイルだった。
息が少し上がっている。
「殿下」
「境から戻る便が一台、門前で止まってます」
「何があった」
「通行札は通ったそうです」
「でも荷を全部降ろさせて、半日足止めされたと」
「向こうの代官が、“次はもっと細かく見る”と言ったらしいです」
ノアが舌打ちした。
「来たな」
まだ税はかかっていない。
まだ荷も没収されていない。
だが、嫌がらせは始まっていた。
止める。
待たせる。
面倒にする。
それだけで、小口の商いは細る。
今のフェルドにとっては、それだけで十分痛い。
レオンは立ち上がった。
「まず荷を見よう」
北門へ出ると、小さな荷車が一台、泥をつけたまま停まっていた。
御者は若い男だった。
肩に力が入りっぱなしで、顔色も悪い。
「……通りました」
と彼は言った。
「通りましたけど、もう次は割に合わないかもしれません」
荷は縄と鉄具、それに乾いた木片だ。
試験工区と工房区画で使う分。
失って困る量ではない。
だが失えば、流れが細る量ではある。
「向こうは何て」
とレオンが聞く。
御者は唇を湿らせた。
「“最近のフェルドは、やたらと手を広げる”と」
「“路を傷める荷が増えるなら、それなりの扱いを考える”とも」
路を傷める荷。
綺麗な言い換えだった。
要するに、お前たちの回復は気に入らない、と言っている。
「今日はこれだけで済んだんです」
と御者は続けた。
「でも次も同じなら、ほかの連中は避けます」
「荷が小さいほど、待たされるだけで赤になりますから」
それが一番嫌なところだった。
大商会なら耐えられる。
だが今、フェルドへ動き始めているのは、大商会ではない。
腕はあるが後ろ盾の薄い職人。
一度だけ試しに荷を入れてみる小商い。
そういう細い流れだ。
そこへ「面倒そうだ」という評判がつくだけで、人は来なくなる。
レオンは荷車の木枠へ手を置いた。
まだ殴ってはこない。
だが、立ち止まらせる気はある。
春にようやく通し始めた細い流れへ、隣から手が伸び始めていた。
その夜、実務室では荷の帳面より先に、境の話が主題になった。
そして翌朝、その嫌がらせは、もっと分かりやすい形で紙になって届くことになる。




