第125話 作れる人がいない
試験工区の水は、翌朝も細く通っていた。
夜のうちに崩れた場所はない。
漏れは少し。
土留めは一か所だけ沈み気味。
セリスの記録には、そんな文字が並んでいる。
「一本なら持ちますね」
とフィアナが言った。
「一本ならな」
とレオンは答えた。
通ったから終わりではない。
通ったから次が見える。
そして次が見える分だけ、足りないものもはっきりした。
実務室へ戻ると、トーマスとローエンがもう待っていた。
ヘルマンもいる。
机の上には、昨日の記録と春耕用の修理控えが重なっていた。
「先に聞く」
とレオンは言った。
「今の手で、同じ工区をあと二本増やせるか」
トーマスはすぐに答えなかった。
紙より先に、自分の指を見た。
節が太く、木屑が爪の間に残っている。
「木だけなら何とかします」
「でも水路だけじゃ済みません」
と彼は言う。
「農具の柄も替えなきゃならん。車輪も割れてる。鍬の台も、鍋場で使い潰した棚もある」
「鍛冶場も同じです」
とローエンが続く。
「木樋の留め具、鍬の刃、鋤の直し、炉金具の補修」
「春は全部が一緒に来る」
「どれか一つなら回せても、並べると先に腕が足りません」
フィアナが別紙を出した。
工房ごとの手数。
木工場の人数。
鍛冶場の炉数。
石を扱える者の名。
だが名簿と呼ぶには薄い。
残っている人間を寄せた紙に近かった。
「石工は特に薄いです」
とフィアナ。
「去年までの補修で散りました」
「多くは逃げましたし、残れた者も王都や豊かな領へ移っています」
「払われない土地に、長く留まる理由がありませんでしたから」
ヘルマンが低く言う。
「逃げたのではなく、生きる方へ動いた者も多いでしょうな」
否定できなかった。
フェルド領は長いあいだ、腕のある者ほど残りにくい土地だった。
午後、レオンは工房区画を回った。
鍛冶場の炉は二つ。
両方とも火は入っているが、片方は修理上がりの鍬で埋まっている。
木工場では、若い衆が車輪の縁を削っていた。
その隣の閉じた工房には、半分壊れた作業台が置かれたままだ。
石を扱う場はもっと寂しい。
去年のままの崩れ石と、割れた縁石が端に寄せられているだけだった。
「前はもう少し人がいたんですけどね」
とトーマスが言う。
「払えなくなって消えた」
「冬を越える前に、先に見切られた」
ローエンも炉の火を見たまま続ける。
「腕のある奴ほど、他所へ行くのは早いです」
「残るのは土地に縛られた奴と、行く先のない奴ばかりになる」
嫌な言い方だが、間違ってもいない。
冬の不足は、生き延びるための不足だった。
春の不足は、前へ進むための不足だ。
その方が余計に腹立たしい。
「じゃあ集める」
とレオンは言った。
トーマスが顔を上げる。
「来ますかね」
「こんな北まで」
その“こんな”には悪意より実感があった。
寒い。
遠い。
荒れている。
前よりましになったとはいえ、わざわざ越して来たがる土地ではない。
「来たがる者が少ないのは前提にする」
とレオン。
「そのうえで、来る理由を作る」
フィアナが視線を寄せた。
「鍛冶師、大工、石工」
「全部ですか」
「全部だ」
「水路だけ直しても、道具が死ねば畑が止まる」
「畑だけ戻っても、倉や井戸が崩れればまた削れる」
「今のフェルドは、一か所だけ強くしても意味がない」
ヘルマンが古い帳面をめくる。
「昔は王都から回ってきた職人もいたようですな」
「冬前の大補修や、砦の石積みで」
「ただし近年は、支払い遅れと寒さで評判を落としております」
「だろうな」
とレオンは言った。
評判は急に作れない。
でも急いで変えないと、この春はまた細いまま終わる。
夕方、北門の方角を見ながら、レオンは短く言った。
「札を出す」
「仕事だけじゃなく、住む条件まで書く」
フィアナはすぐ頷いた。
トーマスもローエンも、反対はしなかった。
今のフェルド領でいちばん足りないのは、木でも鉄でも石でもない。
それを形にできる人の手だった。
その夜、実務室の机には募集の文面が並び始めた。




