第124話 試験工区
試験工区は、ローデ村の上区画に決まった。
祭りの夜にハンスが水の話を出した場所だ。
下の畑までは、何とか戻せている。
だがその一段上は、今も乾いたまま残っている。
そこへ通れば、今年の春が一つ先へ進む。
朝、現地に集まった人間は多すぎなかった。
それがよかった。
トーマスの木工組。
ローエンと鍛冶場から二人。
ドルクのところから力仕事の兵が数人。
村側の働き手。
そして、記録役としてヘルマンとセリス。
大工事ではない。
だからこそ、誰が何をするかが見える人数に抑えた。
「最初に言っておく」
とレオンは水路跡の前で言った。
「今日は全部を直しに来たわけじゃない」
「一本通すための試験だ」
「失敗しても、ここで止める。成功したら広げる」
ハンスが村の者たちへ向き直る。
その説明を、彼の言葉でもう一度落とす。
村人たちの顔は半信半疑だった。
だが祭りの前の疑い方とは違う。
やるなら見よう、という顔になっている。
フィアナは地図と現地の筋を見比べていた。
「掘るのはここまで」
「角は深くしすぎないでください。流れが強くなりすぎます」
「木樋を置く位置は、さらに半歩上です」
トーマスが杭を打つ。
兵たちが土を崩す。
去年の崩れで埋まった横筋が、少しずつ線に戻っていく。
レオンも袖をまくって土を払った。
領主が鍬を振るう必要はない。
だが線を決めた人間が、現場の泥を知らないままなのは嫌だった。
「殿下、そっちは浅いです」
とトーマスが言う。
「分かった」
「分かるの早いですね」
「間違ったまま掘る方が面倒だからな」
土を起こす音。
木を運ぶ声。
鉄具の鳴る音。
畑とは別の仕事の音だった。
昼前には、問題の崩れ角が露わになった。
予想より痩せている。
石を積み直すなら日がかかる。
だが今日はそこまでしない。
枝束を詰め、土を切り直し、木の板で流れを逃がす。
見た目は荒い。
けれど今の領地にいるのは、見た目のために死なない人間ばかりだった。
ローエンが木樋の金具を締めながら言う。
「これ、ちゃんと持ちますかね」
「今年の春を持てば勝ちだ」
とレオン。
「欲がないようで、だいぶ欲張りですね」
「長持ちする理想を待って、今年を落とすよりましだろ」
午後、木樋が所定の位置へ上がった。
長い一本ではない。
二人で抱えられる程度の箱樋を繋いだだけだ。
それでも崩れた区間を跨ぐには十分だった。
村の若い者が、少し離れたところからそれを見ている。
「本当に、あれで水が来るんですか」
「来なければ直す」
とフィアナが答えた。
「そのための試験です」
言い方はいつものフィアナだった。
でも、前のような突き放しではない。
ちゃんとこの場へ残る言葉になっている。
レオンは最後の位置を見て、頷いた。
「少しだけ流すぞ」
全員の目が、水の元へ向く。
上流側で土を切り、簡易の板を少し上げる。
細い水が新しく掘った筋へ入る。
最初は濁る。
途中で溜まる。
一瞬、止まるかと思った。
だが次の瞬間、木樋の底を叩く音がして、水が向こう側へ抜けた。
大した量ではない。
春の細い流れだ。
それでも、乾いていた上区画の縁へ、たしかに黒い筋が走る。
ハンスが息を呑んだ。
畑の端で見ていた女が、思わず口元を押さえる。
その横の老人は、何も言わずに土へしゃがみ込み、濡れ始めた畝を指で触った。
村の若い者が半歩前へ出る。
「……来た」
声は小さい。
でも、その一言で周りの目つきが変わった。
兵の一人が小さく笑った。
トーマスはまだ腕を組んだままだが、目だけが少し変わっている。
「通ったな」
とレオン。
「はい」
フィアナも短く答えた。
その声には、珍しくはっきりした安堵があった。
もちろん終わりではない。
流れは細い。
土留めはまだ弱い。
一晩で崩れる場所もあるかもしれない。
だからセリスがすぐに書きつける。
流量。
漏れ。
沈み。
補修要。
次日確認。
「喜ぶのは明日まで待て」
とレオンは周囲へ言った。
「今日は通っただけだ」
「ここから持たせて、初めて意味になる」
それでも空気は少しだけ軽くなった。
乾いた畑へ、初めて今年の水が入ったのだから当然だった。
夕方、片づけに入る頃、トーマスがレオンの横へ来た。
「殿下」
「何だ」
「一本なら、こういう形で作れます」
「二本三本も、頑張れば何とかなる」
「でも領内全部へ広げるなら、今の手では無理です」
ローエンも後ろから頷く。
「木を切る手、合わせる手、直す手」
「足りません」
「農具修理と水路を並べたら、先に腕の方が尽きます」
レオンは試験工区の先を見る。
黒い土に、細い水の筋が残っている。
通せる形は見えた。
だが通す人間が足りない。
祭りの次は水だった。
その次は、作れる手そのものになるらしい。
帰り際、フィアナが静かに言った。
「案は立ちました」
「次は、人ですね」
「そうだな」
春の光はまだ長い。
でも、できることは勝手には増えない。
ローデ村の上区画では、試験の水が細く光っていた。
その先を本当に広げるには、この領地にはまだ“作れる人”が足りなかった。




