第122話 水が足りない
領主館の記録庫は、暖かい場所ではなかった。
石壁の内側に湿った冷気が残っている。
古い革表紙と紙の匂い。
冬の名簿整理でも何度か使った部屋だが、今日の机の上はいつもと違った。
広げられているのは、人の名ではない。
水路の線だった。
フィアナは羊皮紙を押さえながら、古い地図を一枚ずつ開いていく。
領内の畑。
用水路。
分岐。
取水口。
昔の工事区分。
「残っていた方ですね」
とセリスが言う。
「残っていたものの中では、です」
フィアナは答えた。
「抜けも多いですが、ないよりはましです」
ヘルマンが別の束を差し出す。
「こちらは修繕控えですな」
「八年前、五年前、三年前。それぞれ春の崩れで応急だけ入れて終わっております」
レオンが紙を受け取った。
応急。
延期。
次年度再検討。
予算不足。
人手不足。
並んでいる文言は、見慣れたものだった。
前世の会社でも、壊れた仕組みの横に似たような言葉がいくらでもあった。
直す予定はある。
でも今はできない。
その繰り返しで、結局いちばん高くつく。
「王都へ回す税と冬越えで、後回しにされたんでしょう」
とフィアナが言う。
「一つの年だけなら耐えられた」
「でも耐えるたび、上流側だけが先に水を取りやすくなったようです」
昼前には、ハンスと北谷の代表、それに森縁側の年配農夫が呼ばれた。
最初は皆、言葉を選んでいた。
だが話が水になると、すぐ空気が変わる。
「上の村が勝手に土を切ったんです」
と森縁の農夫が言う。
「だから下まで回らん」
「勝手じゃない」
北谷の代表がすぐ返した。
「崩れた筋をそのままにして、家を干上がらせろってのか」
「そっちが先に取るから、こっちは蒔けんのだ」
声が強くなる。
冬の鍋場の揉め方とは違った。
これは明日の畑に直結する不満だった。
しかも話がややこしい。
村どうしでは上流と下流で揉める。
その一方で、同じ村の中でも高い畑と低い畑で差が出る。
水が足りない、という一言の中に、別の不満がいくつも重なっていた。
レオンは二人の間に言葉を差し込む。
「止めろ」
その一声で、部屋が少し静まった。
「上流が悪い、下流が悪いで済むなら簡単だ」
「でも今の話は、壊れた筋を各自で継いだ結果だろ」
「放っておいた側が一番悪い」
その最後の一言に、フィアナの目が少し動いた。
王都でも領内でも、放置された仕組みの後始末をしてきた人間の顔だった。
彼女は古い地図の端を指で押さえる。
「ここです」
「昔は主水路が二本に分かれていました」
「今は片方がほぼ死んでいます」
ハンスが身を乗り出した。
「上の横筋か」
「はい」
フィアナは頷く。
「低い方ばかりに水が流れるのは、自然にそうなっただけではありません」
「分岐の角が崩れ、毎年そこだけ応急で押さえてきた」
「その結果、強い流れが一方へ寄った」
ヘルマンが修繕控えをめくる。
「その年その年で、“今年だけ持てばよい”形にしておったのですな」
「持たせた結果、別の側が死んだと」
嫌な話だった。
だが今さら驚くほどではない。
この領地の荒れ方は、だいたいそういう積み重ねでできている。
「じゃあ、直せばいいじゃねえですか」
と北谷の代表が言う。
「ちゃんと元へ戻せば」
「石で組み直すなら、今すぐは無理です」
フィアナは即答した。
「人も資材も足りません」
「また待てってことか」
森縁の農夫が吐き捨てるように言う。
その時、レオンは地図の上の線を見ていた。
全部を直すのは無理。
でも全部を直さないからこそ、通せる筋もある。
彼は分岐の先を指でなぞる。
「完全に戻す話はいったん切る」
とレオンは言った。
皆がそちらを見る。
「今年の春に要るのは、立派な工事じゃない」
「戻せる畑を一段増やすことだ」
「そのために、どの筋なら最小で通せるかを先に見る」
ハンスがゆっくり頷いた。
フィアナは黙ったまま、別の羊皮紙を引いた。
そこには、もっと古い工事の線があった。
今の主水路より細い。
だが途中の落差が少ない。
「この旧横筋……」
フィアナが低く言う。
「石造りではありません。土留めと木樋で繋いでいた時期があります」
ヘルマンが目を細める。
「古いですな」
「辺境伯家がまだ金より人手で回していた頃の記録です」
レオンはその線を見た。
完璧ではない。
だが今のフェルド領に合っている匂いがした。
石の大工事ではなく、今あるもので一本通す。
その方が、この春には間に合う。
「その記録、全部出してくれ」
とレオンは言った。
フィアナはすぐ頷いた。
地図の上で、水の線がようやく“足りない”から“どう通すか”へ変わり始める。
その夜、実務室の机には古い工事記録が山になった。
そしてレオンは、その山の中から、今の領地に間に合う形を探し始めた。




