第120話 春の笑顔
祭りの終わりは、始まりより静かだった。
夕方の灯りが広場へ点き、最後の鍋が空に近づく頃には、人の声も少しずつ丸くなっていた。
朝のような半信半疑の固さはない。
疲れはある。
でも、それは冬の疲れとは違う。
食べて、歩いて、少し買って、子どもを追いかけて。
そういう疲れだ。
レオンは広場の端から、その景色を見ていた。
市場の小さな机は、完売とは言えないまでも、半分以上が軽くなっている。
木皿がなくなった店。
端切れ布が減った箱。
香草の籠が空になった場所。
どれも大した金額にはならないだろう。
それでも、“売れた”という事実がある。
「案外、回るもんだな」
とレオンは言った。
横にいたリナが笑う。
「今日は皆、物を買うっていうより、“買ってもいい日”だと思ってますよ」
「そういう日が一回あるだけで、店側もだいぶ違います」
その言葉は、商いの理屈として正しかった。
買う余裕が戻ったわけじゃない。
でも、買う気持ちが戻るだけで街の顔は変わる。
それは前世の数字では見えにくかった種類の回復だった。
広場の中央では、笛の音が細く続いている。
上手くはない。
でも、誰も文句を言わない。
子どもたちはそれだけで十分楽しそうだった。
一人が走り、二人が追い、転びそうになって笑う。
その後ろで母親が慌てる。
鍋の湯気と、薄い灯りと、子どもの笑い声。
冬の間はどれも揃わなかった。
レオンはふと、前世のことを思い出した。
数字を整えた。
表を揃えた。
会議を回した。
流れを立て直して、その場は何度も持ち直した。
でも、その先に何が残ったのか、自分の目で見えることはほとんどなかった。
朝にはまた別の資料が積まれ、夜には別の差し戻しが来る。
終わりのない実務だった。
ここでは違う。
鍋を食べた子が笑う。
木皿が一枚売れる。
広場に灯りが入る。
それだけで、何を積んだのかが分かる。
「殿下」
呼ばれて振り向くと、フィアナが立っていた。
昼より少しだけ肩の力が抜けている。
それでも背筋は変わらず綺麗だ。
「どうでしたか」
と彼女が聞く。
「何が」
「この祭りです」
レオンは広場を見た。
答えは、景色の方にもう出ている気がした。
「やってよかった」
と彼は言った。
フィアナはすぐには返さなかった。
薄灰の目で、子どもの列と、売れた机と、灯りの揺れる布を見ている。
「私もです」
と、やがて彼女は言った。
その声は小さい。
でも、今までの彼女の言葉の中でも、かなり柔らかい方だった。
「ずっと、守るだけでした」
「減らさないために切って、崩さないために止めて、失わないために睨んで」
「そればかりだったので」
レオンは黙って聞いた。
「今日みたいに」
フィアナは続ける。
「戻ってきたものを見る日は、あまりありませんでした」
広場の向こうで、朝に香草と菓子を持ってきた夫人が、売れ残りの小皿を一枚買っていた。
大した物じゃない。
でも、その一枚がこの領地には大きい。
「無駄じゃなかったんですね」
とフィアナが言う。
その言葉は、自分へ向けた確認みたいだった。
王都で嫌われたこと。
領都で恨まれたこと。
冬の間に切った順番。
それら全部が、今日ここへ少しだけ繋がっている。
「無駄じゃない」
とレオンは答えた。
言い切ってもいいと思えた。
少なくとも今夜だけは。
その時、子どもたちが広場の中央からこちらへ駆けてきた。
昼に花を渡してきた子も混じっている。
「殿下!」
「お嬢さま!」
前より、少し声が大きい。
「鍋、おいしかった!」
「お皿、買った!」
「明日もある?」
最後の一言に、マルタが遠くから即座に返した。
「明日はないよ!」
「明日からはちゃんと働きな!」
笑いが起きる。
子どもたちはそれでも嬉しそうだった。
フィアナがわずかに口元を緩める。
レオンはその横顔を見て、少しだけ驚く。
この人がこういう顔をするのを、前より見られるようになった。
広場の灯りが一つ、また一つと落とされていく。
終わりの合図だ。
でも、寂しさばかりではない。
終わったあとに、次の話をし始める顔が残っている。
ドルクは木材置き場の整理をしている。
カイルは片付けの兵を回しながら、村から来た男と何か話していた。
セリスは最後まで控えを整えている。
祭りの記録まで残す気らしい。
「本当に変わらないな」
とレオンが言うと、彼女は顔も上げずに答えた。
「こういう日の記録ほど要ります」
「次に広げる時の基礎になりますので」
それを聞いて、レオンは少しだけ笑った。
今日だけで終わらせない前提らしい。
広場の人が引き始めた頃、ハンスが村側の者を連れて近づいてきた。
泥のついた靴のまま、でも顔は冬より明るい。
「良い日でしたな」
とハンス。
「小さい祭りだったけどな」
レオンが返すと、老人は頷く。
「ええ。だから良かった」
「大きすぎると、今のうちには重い」
それからハンスは、少しだけ声を落とした。
「皆、顔を上げました」
「春らしい顔でした」
フィアナがその言葉に、静かに目を伏せる。
今日一日の締めとしては、それで十分だった。
レオンは灯りの減った広場を見た。
子どもの笑い声はもう遠い。
それでも石畳の上には、たしかに今日の余韻が残っている。
前世で感じられなかった仕事の意味が、今はここにある。
人の顔と、灯りと、少し先を見ようとする空気の形で。
ハンスが、そこで改めて言った。
「ただ」
「次は水ですな」
レオンの目が動く。
「水路のことか」
「はい」
ハンスは広場の向こうを顎で示した。
「戻せた畑はまだ手前だけです」
「上の区画まで広げるなら、水が足りん」
「今年のうちに筋を通せれば、来年が違います」
フィアナもすぐに表情を引き締めた。
「私も同じことを考えていました」
「今のままだと、戻せる地が限られます」
祭りの夜の余韻が、少しずつ次の実務へ形を変えていく。
笑って終わるだけではない。
笑ったあとで、次に足りないものを数え始める。
それが今のフェルド領だ。
レオンは夜の広場を見た。
笑顔の残る場所の向こうに、まだ戻せていない畑がある。
「祭りの次にする話としては、だいぶ現実的だな」
とレオン。
「この領地らしいでしょう」
とフィアナが小さく言った。
最後の灯りが落ちる。
でも今夜の領都は、冬の夜より少しだけ温かい。
その温かさを消さないために、次は水路を通さなければならない。
祭りの終わった広場では、もう次の春の仕事が始まろうとしていた。




