第117話 祭りの提案
祭りの話を持ち出したのは、フィアナだった。
春耕へ回す荷の確認が終わった夕方。
実務室には、まだ泥と鉄の匂いが残っている。
机の上には追加不足の控え、修理要望、次便の配分表。
どれも軽い紙ではない。
だからレオンは、最初、聞き間違えたかと思った。
「祭り?」
「はい」
フィアナは紙束を揃えたまま答えた。
「小さくても、開きたいと思います」
マルタが顔を上げる。
ヘルマンは眼鏡の位置を直し、セリスだけが先にレオンの反応を見た。
「贅沢じゃないか」
とレオンは言った。
種はまだ薄い。
農具も足りない。
畑へ人が戻り始めたとはいえ、余裕ができたわけではない。
フィアナはすぐに言い返さなかった。
一拍だけ置いてから、静かに口を開く。
「大きな祭りではありません」
「昔、この領都では春耕の前に、小さな祈りの場を開いていました」
「残っている穀を少しだけ出して、今年の実りを願う」
「始める印のようなものです」
ヘルマンが鼻を鳴らした。
「ありましたな」
「今はもう、覚えている者の方が少ないでしょうが」
「収穫祭って名前のくせに、まだ何も獲れてないんだな」
とレオン。
「だから先に願うんですよ」
マルタが言った。
「本当に獲れてから騒ぐだけなら、ただの飲み食いです」
レオンは椅子へ浅くもたれた。
分からない話ではない。
むしろ、分かるから困る。
冬の間、領地は生き延びるためだけに動いていた。
鍋の列。
薪の山。
配給の札。
必要なことだったし、今も必要だ。
だが、それだけを続けると、人の顔が沈んだままになる。
「余裕を見せることも統治です」
とセリスが言った。
「珍しく、いい言い方だな」
レオンが返すと、彼女は表情も変えない。
「監査使の相手で学びました」
「苦しい時ほど、苦しい顔しかできない側は弱く見られます」
「領民相手でも同じです」
フィアナが小さく頷く。
「安心した、という話ではありません」
「でも、足りないままでも顔を上げる日が一日あるだけで、次の数日が違います」
その言葉は、思いつきよりずっと落ち着いていた。
たぶん彼女は、必要だと前から分かっていたのだろう。
口に出す余裕がなかっただけで。
レオンは机の上の紙を見る。
祭りをしたところで、種は増えない。
牛も戻らない。
それでも。
「やるとして、何を出す」
と彼は言った。
フィアナの目がわずかに動いた。
通った、と分かった顔だった。
「市場の広場を使います」
「出店は少数。今すぐ出せるものだけ」
「子ども向けの炊き出しを一つ」
「春の祈りの場を一つ」
「農具修理や木工の小物も並べられるなら、仕事の戻りも見せられます」
「酒は?」
とレオン。
マルタがすぐ首を振る。
「駄目です」
「今やると、楽しい祭りじゃなくて荒れる祭りになります」
「せいぜい薄い果実水までです」
「同感ですな」
ヘルマンが言った。
「酔わせるより、温かい汁の方がましでしょう」
「費用は抑えます」
とフィアナ。
「飾りも最低限で」
「大げさなことはしません」
レオンは少しだけ黙った。
前世の職場には、こういう時間がなかった。
締切のための会議。
責任を減らすための書類。
数字を直しても、最後に残るのは次の仕事だけだった。
ここでは違う。
泥のついた農具が村へ渡った。
鍋の列が少し短くなった。
それを確かめる日が、あってもいいのかもしれない。
「小さくだぞ」
とレオンは言った。
「春耕を止めるな。次便も落とすな」
「その上で、やれる範囲だけやる」
フィアナは息をつくみたいに、小さく頷いた。
「はい」
それだけだった。
でも、その短い返事には、珍しく少しだけ柔らかいものが混じっていた。
「広場の警備は厚くしときます」
とドルク。
「祭りだからって、変なのが消えるわけじゃない」
「頼む」
「子ども向けの鍋なら、うちで回せますよ」
マルタが腕を組む。
「祭りなら、少しだけ塩を足しましょうかね」
「その判断は現場に任せる」
とレオン。
「珍しく寛大ですね」
「塩まで削ったら、ただの配給だ」
部屋の空気が少しだけ緩んだ。
その夜、広場へ出す触れが整えられた。
春耕始まりにつき、小さな祈りと炊き出しを開く。
領都民、村からの来訪者ともに可。
贅沢はなし。
持ち寄れるものがある者は少しだけ。
乾いた文だ。
でも、今の領地にはそれでよかった。
セリスが最後の文面を見て言う。
「集まるでしょうか」
「半分は様子見だろうな」
とレオン。
「残り半分は鍋目当てだ」
「それでも十分です」
とフィアナが答えた。
実務室の窓の外では、夜の広場がまだ暗い。
市場の屋台骨も半分は眠ったままだ。
でも、そこへもう一度人を集めようとしている。
食べるためだけじゃなく、少しだけ顔を上げるために。
翌朝には、広場へ最初の長机が運び込まれることになっていた。




