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捨てられ第三王子は、信頼を取り戻したいだけなのに、崩壊寸前の辺境領と婚約破棄寸前の令嬢まで任されました  作者: 玖城イサ
第一章

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116/143

第116話 畑へ戻る人々

 



 朝の空は、冬の青より少しだけ薄かった。


 北門の外へ出る荷車は二台。

 一台には打ち直した鍬と鋤の歯。

 もう一台には木柄、革具、小車用の車輪、それに種袋へ作り替えた布袋が積まれている。


 見た目は立派じゃない。

 新品でもない。

 軍の余りと壊れかけの農具を繋いだ、間に合わせの春だ。


 でも、止まっていた昨日よりはずっといい。


 トーマスが荷を確かめながら言う。


「柄はまだ荒いぞ」

「使ってるうちに手へ馴染ませるしかない」


「歯も全部は揃ってない」

 とローエン。

「欠けたら持って戻せ。次を打つ」


 マルタが横から呆れたように言う。


「鍋場より口が悪いの、どうにかならないのかね」


「物は温かくないからな」

 ローエンは平然と返した。


 そういうやり取りが出るだけ、空気は前より軽い。

 冬の実務室には、こういう無駄口がほとんどなかった。


 レオンは荷車の脇で、村ごとの配分表を最後に見た。


 ローデへ先行。

 北谷は水路沿いの区画から。

 森縁は小区画中心。

 南端は今回は主耕作を切るが、菜園分の道具と袋は渡す。


 全部は戻せない。

 でも、今年の春を始める場所は決めた。


「行こう」

 とレオンは言った。


 泥道はまだ重い。

 車輪は時々取られ、牛も楽そうではない。

 それでも冬の雪道よりましだった。

 止まれば押し、沈めば板を噛ませる。

 そうして進む。


 ローデ村へ着くと、村の空気が少し違っていた。


 人が出ている。

 納屋の前に男が二人。

 井戸端に女たち。

 子どもが土の柔らかい場所を棒で突いている。

 まだ活気と呼ぶには早い。

 でも、家に閉じているだけの朝ではなかった。


 ハンスが迎えに出てくる。


「早いですな」


「遅いよりいい」

 とレオン。


 荷を下ろすと、人が寄る。

 視線は道具へ集まる。

 鍋の列の時とは違う顔だ。

 もらえるかどうかではなく、使えるかどうかを見る顔だった。


 トーマスが木柄を一本持ち上げる。


「荒いが折れん」

「壊れたら次は直し方を覚えろ」


「教えろよ、そこは」

 とカイルが横から言うと、村の若い男が小さく笑った。


 その笑いが、レオンには少し意外だった。

 この冬、領地の笑いはいつも火の近くにだけあった。

 今は土の前にある。


 フィアナは配分表を見ながら、村長と低く話している。


「水路沿いの低地からです」

「奥の畑は今年は切る」

「その代わり、戻した区画へ人を寄せてください」

「家ごとに散らすと薄くなります」


 ハンスは渋い顔をしたが、頷いた。


「分かっておる」

「今年は見栄を張る年じゃない」


 その言い方に、フィアナの肩の力が少しだけ抜ける。

 嫌われる覚悟で切った順番が、ようやく地面へ落ち始めていた。


 最初の鍬が土へ入る。


 乾いた冬土ではない。

 水を含んだ重い土だ。

 一度で綺麗には割れない。

 それでも二度、三度と入れれば、黒い筋ができる。


 その筋を見た瞬間、近くにいた女が小さく息を呑んだ。


 大げさな歓声はない。

 でも、皆が見ていた。

 今年の最初の一本目みたいに。


 レオンはその光景を見て、前世のことを少しだけ思い出した。

 数字を直し、表を揃え、流れを立て直しても、最後に何が残ったのか見えにくい仕事だった。


 今は違う。

 土に筋が残る。

 それだけで、何をやったかが見える。


 北谷へ回った頃には、もっとはっきりしていた。


 水路脇の畑へ、戻ってきた者たちが並ぶ。

 冬の間に鍋場で顔を見た者もいる。

 木材置き場で働いていた男もいる。

 巡回の手伝いをしていた若い兵の弟もいた。


 役目は冬のあいだだけで終わらない。

 春にそのまま繋がる。

 それが領地として一番いい形だ、とレオンは思う。


「殿下」


 呼ばれて振り向くと、先日フィアナを「お嬢さま」と呼んだ子どもがいた。

 今度は泥だらけの手で、種袋を抱えている。


「それ、重くないか」


「だいじょうぶ」

 子どもは頷いた。

「うちの分、こっちだって」


 その後ろで母親が慌てて頭を下げる。

 フィアナは首を振った。


「気にしないでください」

「ただ、袋は濡らさないように」


「はい、お嬢さま」


 また、その呼び方だった。

 今度は一人ではない。

 二人、三人と同じ呼び方が混じる。


 フィアナは表情を崩さない。

 でもレオンには分かった。

 前のような硬さはもうない。

 受け止める側の重さが少し変わったのだ。


 昼を過ぎる頃には、どの村も全部は戻っていなかった。

 切った畑はそのままだ。

 人手の足りない家もある。

 牛のいない区画は手作業で遅い。


 それでも、まったく違う景色だった。


 土へ向く背中がある。

 道具の順番を待つ列がある。

 戻した区画の端へ、次の区画を指差す声がある。


 春の希望は、明るいだけじゃない。

 泥と不足の中でしか見えない。

 でも、その分だけ本物だった。


 領都へ戻る夕方、荷車は軽くなっていた。

 代わりに控えが増えている。

 修理要望。

 追加不足。

 次便で欲しいもの。


 フィアナが紙束を整えながら言う。


「足りませんね」


「知ってる」

 とレオン。


「でも、戻りました」


「はい」


 短いやり取りだった。

 それで十分だった。


 実務室へ入ると、セリスが次便の外向け報せの雛形を置いていた。

 春耕開始。

 限定再耕作。

 農具再利用。

 不足継続。


 乾いた文だ。

 でも、今のフェルド領には似合っている。


 レオンは窓の外を見た。

 夕陽の下で、領都の屋根はまだ冬の色を残している。

 それでも今日は、鍋場の煙だけじゃない。

 泥のついた荷車が帰り、畑の話を持ち込んでいる。


「この春で」

 とレオンは言った。

「ようやく再建の年が動き始めたな」


 フィアナはその言葉を少しだけ反芻するように黙った。

 それから、静かに頷く。


「はい」

「冬を越えただけでは、再建とは呼べませんから」


 そして、ほんの一拍置いてから続けた。


「……殿下」

「この春の入り口くらいは、皆が少しだけ顔を上げられる日を作れませんか」


 レオンはそちらを見た。


 フィアナの声は大きくない。

 提案というより、まだ形になる前の思いつきに近い。

 でも、その目にはもう次の季節が入っていた。


 冬を越えた。

 畑へ人が戻った。

 なら次は、生きるためだけではない時間を、少しだけ領地へ戻せないか。


 その発想は、前のフェルド領にはなかったものだ。


 レオンは小さく息を吐いた。


 春はまだ始まったばかりだ。

 足りないものも山ほどある。

 それでも今、ようやくそんな話が出るところまで来た。


 実務室の窓の外で、雪解け水がまた軒から落ちた。

 冬の終わりの音だった。


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