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捨てられ第三王子は、信頼を取り戻したいだけなのに、崩壊寸前の辺境領と婚約破棄寸前の令嬢まで任されました  作者: 玖城イサ
第一章

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113/138

第113話 雪解け

 



 朝、軒先から落ちる水音で目が覚めた。


 レオンはしばらく寝台の中で、その音を聞いていた。

 ぽたり、ぽたりと一定ではない。

 夜のあいだ締まっていた雪が、朝のわずかな緩みでほどけている音だ。


 窓を開ければ息はまだ白い。

 それでも空気の底には、冬の終わりに似た薄い水の匂いがあった。


「来ましたね」


 後ろからフィアナの声がした。

 もう支度は済んでいるらしい。

 いつもより少し軽い外套を着ている。


「見れば分かる」

 とレオンは言って、窓の外へ顎を向けた。


 領都の石畳にはまだ雪が残っている。

 けれど北門の脇や屋根の影では泥が覗いていた。

 子どもが一人、まだ固い雪の端を靴で崩している。

 冬のあいだは広場へ出る顔も少なかったのに、今朝は人の動きが少し早い。


「鍋場は」

 とレオン。


「続けます」

 フィアナは即答した。

「朝夕はまだ必要です。ただ、昼の列は前より短くなるかもしれません」


「火が持つ家が増えるからか」


「それもあります」

 彼女は頷いた。

「あと、人が外へ出始めます」


 外へ出る。

 それはつまり、次の仕事へ人が動くということだ。


 守る冬が終わる。

 ここからは戻す春になる。


 実務室へ入ると、机の上の紙がもう入れ替わっていた。


 冬のあいだ主役だったのは、配給表と見回り記録だ。

 今はそこへ、農地の控え、村ごとの労働力、家畜の残数、農具の破損一覧が重なっている。


 ヘルマンが古い帳面を広げ、鼻を鳴らした。


「ようやく鍋以外の数字を見る朝ですな」


「見たくない数字かもしれないけどな」

 とレオンは答えた。


 マルタが控え板を抱えて入ってくる。


「鍋場は朝の分をいつも通り回しますよ」

「その代わり、今日は聞き取りを増やします」

「どの家が畑へ戻れるか、子どもしか残ってないか、牛が生きてるか。そこを聞かなきゃ次へ進めない」


「村便側も合わせます」

 とフィアナ。

「ローデ、北谷、森縁、南端。先に水路の残っている村から」


「順番はいい」

 レオンは席についた。

「まず全体を見る」


 紙を一枚ずつめくる。

 各村の人口。

 冬越え後の労働力。

 耕作放棄地の面積。

 残っている牛馬。

 鍬、鋤、車輪、縄の在庫。


 嫌なことに、どれか一つだけが足りないわけではなかった。


「人手は戻りきらない」

 とレオン。


「はい」

 フィアナが答える。

「冬の間に弱った家もありますし、戻る先を失った者もいる」

「村へ帰れても、すぐ畑に出せる人数は限られます」


「農具は」

 とレオン。


 ヘルマンが別紙を差し出した。


「使える形で残っているのは、思ったより少ないですな」

「木柄が割れ、鉄が痩せ、歯が欠けている。冬のあいだ鍋場や薪割りへ回した分もあります」


「家畜はもっと少ない」

 フィアナが低く言う。

「牛は冬を越えた家でも痩せています」

「馬は見回りと便で先に使ってきた」

「全部の畑を戻す前提では組めません」


 レオンは紙から顔を上げた。


「生き延びただけじゃ、そのまま春耕には入れないってことか」


「はい」

 フィアナはまっすぐ頷いた。

「ここからは、戻せる場所を選ぶ段階です」


 結局、春も優先順位から逃げられない。

 希望が見える季節ほど、その線引きは嫌われる。


 ドルクが戸口から顔を出した。


「北門の外、ぬかるみ始めてます」

「荷車はまだ重いですが、人だけなら村へ入れます」


「じゃあ今日のうちに見に行く」

 とレオンは言った。


 フィアナがすぐ地図を引き寄せる。


「近場の再耕作候補地を先に見ましょう」

「水路が半分でも生きていて、村の人数が残っている場所です」


「全部見る気はない」

 レオンは立ち上がった。

「戻せる場所を見る」


 広場を抜けると、雪はもう端へ寄っていた。

 泥は厄介だが、冬の底よりはましだった。

 鍋場の列もまだある。

 ただ、顔ぶれが少し変わっている。

 食べるためだけに来ている顔より、食べてから動く顔が増えていた。


 北門の外へ出ると、春はもっと頼りなかった。


 土は黒い。

 でも水を吸いすぎて重い。

 去年の刈り跡がそのまま寝ている畑もある。

 畝の形だけ残っている場所もあれば、半分以上が草と泥に呑まれた場所もあった。


 村長が帽子を脱いで頭を下げる。


「殿下、令嬢様」


「今は挨拶より畑だ」

 とレオンは言った。

「戻せるかどうかを先に見たい」


 村長はすぐ頷いた。

 前なら王族への言葉を探していた者たちが、今は用件へ入る。

 それだけでも、この冬の積み上げはあった。


 水路は半分崩れていた。

 だが全部ではない。

 低い方の畑なら、今の人手でも何とかなるかもしれない。

 問題はその先だった。


 納屋に入ると、鍬が三本。

 まともに使えそうなのは一本だけ。

 鋤の刃は欠け、縄は湿っている。

 牛舎は空に近い。


「種は」

 とフィアナが聞く。


 村長の顔が曇った。


「家ごとに少しずつは」

「ですが、去年の食いつなぎでかなり減りました」

「蒔ける分を残した家ばかりでは」


 レオンは納屋の暗がりを見た。

 春の光は差しているのに、中身は明るくない。


 戻したくても、戻す道具がない。

 戻せても、蒔くものがない。


 村を出たあと、レオンは泥を落としながら小さく息を吐いた。


「守りの冬より、こっちの方が厄介だな」


「はい」

 とフィアナ。

「冬は足りないものが見えやすかった」

「春は、戻せる気がする分だけ判断を誤りやすい」


 その言葉に、レオンは頷いた。

 全部を戻したい気持ちは誰にでもある。

 だが、そのまま種と道具を薄く撒けば、残るのは痩せた畑だけだ。


 領都へ戻る頃には、机の上へ新しい紙が積まれていた。

 マルタの聞き取り。

 各村の家畜数。

 旧農具の破損控え。


 そして一番下に、ヘルマンがまとめた一覧があった。


 再耕作可能地に対し、種籾の見込み、明らかに不足。


 レオンは紙を持ち上げたまま、しばらく黙った。

 予想はしていた。

 それでも文字になると重い。


 その夜、実務室の暖炉の前で、フィアナが静かに言った。


「殿下。生き延びた畑に、蒔く種がありません」


 それが、この春の本当の始まりだった。


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