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捨てられ第三王子は、信頼を取り戻したいだけなのに、崩壊寸前の辺境領と婚約破棄寸前の令嬢まで任されました  作者: 玖城イサ
第一章

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112/135

第112話 名前の重み

 


 朝の広場は、前より少しだけ忙しかった。


 雪はまだある。

 だが先日のような刺す冷えではない。

 鍋場の湯気も、前より穏やかに見える。


 フィアナは配布台の横で、木箱の数を確かめていた。

 器。

 控え札。

 持ち帰り分の布包み。

 どれもまだ足りるとは言えない。

 けれど、前みたいな綱渡りでもなくなってきている。


「それ、こっちでいい?」


 不意に、子どもの声がした。


 振り向くと、十歳にも届かないくらいの男の子が、木匙の束を両腕で抱えて立っていた。

 以前、鍋場の列で見かけた顔だ。

 頬の赤みは薄くなっている。

 目も前より落ちていない。


「それはマルタの箱へ」

 フィアナが言うと、子どもはすぐ頷いた。


「分かった、お嬢さま」


 足が止まる。


 ほんの短い一言だった。

 でも、妙に胸へ残った。


 お嬢さま。

 その呼び方自体は、珍しくない。

 村でも領都でも、そう呼ばれることはあった。


 ただ、前は違った。


 遠い。

 硬い。

 責めも諦めも少し混じる。

 そういう呼ばれ方だった。


 今の一声には、それがなかった。

 ただ、そこにいる相手を、そのまま呼んだ声だった。


 子どもはもう木箱の方へ走っている。

 たぶん深い意味はない。

 だからこそ、軽く刺さる。


「どうかしましたか」


 後ろからマルタが来る。

 鍋の蓋を抱えたまま、フィアナの視線の先を追った。


「いえ」

 フィアナは首を振る。

「少し、驚いただけです」


「何に」


 フィアナはすぐには答えなかった。

 代わりに、子どもが木匙を置いて戻ってくるのを目で追う。


 前は、彼らと自分の間にはいつも薄い膜があった。

 領主側。

 帳面の人間。

 冷たい令嬢。

 そういう膜だ。


 今、それが全部消えたわけではない。

 でも一枚、薄くなった気がした。


「呼ばれ方に」

 と彼女はやっと言う。


 マルタは一瞬だけ目を丸くした。

 それから、ああ、と小さく笑う。


「悪くなかったでしょう」


「……そうですね」


 言ってしまうと、少しだけ照れくさい。

 でも否定するほどでもない。


 広場の端では、レオンがドルクと何か話していた。

 見回りの順だろう。

 相変わらず前へ出すぎず、でも消えもしない位置にいる。


 その横へ、セリスが早足で入ってきた。

 手には封の切られた紙が二通ある。


「返ってきました」

 と彼女は言う。


 レオンが受け取り、一通をこちらへ向けた。


「ドレヴァンとエルシュ」


 フィアナも近づく。

 紙はどちらも短い。


 ドレヴァンからは、冬期配給と街道状況の継続報告を求める文。

 余計な賛辞はない。

 だが、次も読みたいという姿勢は明確だ。


 エルシュからは、もっと実務寄りだった。

 病人の流れと、修道院経由の薬草便の通行可能日。

 それから最後に、一行だけ。


 ――春前に不足が見え始めたら、早めに知らせてほしい。


「早いですね」

 フィアナが呟く。


「早い方がいい」

 とレオン。

「向こうも、春に入ってから困るのは嫌なんだろ」


 それはその通りだった。


 冬がまだ終わっていないのに、もう次の不足を見ている。

 以前のフェルド領なら、そこまで話が届く前に沈んでいた。


 セリスがもう一枚の控えを広げる。


「どうしますか」

「単発の返書で終えるか、定期の外向け報せとして形にするか」


 レオンは紙を見たまま少し考えた。

 考えすぎないのが彼らしい。

 必要な時間だけ置いて、すぐ決める。


「形にしよう」

「噂の訂正じゃなく、領地運営の定期報せとして出す」

「冬の間は簡潔に」

「春が近づいたら、不足見込みも加える」


 セリスがすぐに書き留める。


「宛先は」

「近隣三領、主な商人筋、修道院連合の北方窓口」

「王都には?」


 レオンは少しだけ口元を動かした。


「別便で置く」

「向こうには“宣伝”に見えない方がいい」

「でも、後から読める場所には残す」


 それが一番いやらしくないやり方だった。

 そして、たぶん一番効く。


 フィアナは二通の紙を見下ろした。


 前なら、外へ出す文は防戦だった。

 謝る。

 取り繕う。

 切られないように整える。

 そういう文ばかりだった。


 今は違う。


 足りないものを足りないまま書く。

 できたことをできた範囲で置く。

 その乾いた積み上げの中に、自分の名前も混ざる。


 名誉回復、なんて綺麗な言葉はまだ似合わない。

 王都の噂は消えていない。

 婚約の話も傷のままだ。


 それでも、名前の重みだけは少し変わった気がした。


 悪女と呼ばれる時の重さではない。

 誰かに仕事を頼まれる時の重さ。

 誰かが報せの中に入れておくべきものとして扱う重さだ。


「ベルクライン令嬢」

 とセリスが呼ぶ。


「はい」


「次便の雛形ですが、担当欄は前回と同じで構いませんか」


 フィアナは紙から目を上げた。

 レオンもこちらを見ている。


 以前なら、少し躊躇ったかもしれない。

 自分の名を前へ出せば、またどこかで使われる気がして。


 でも今は、違う。


「構いません」

 と彼女は言った。

「ただし、春前の備えは別欄でまとめましょう」

「今のうちに、足りないものが出そうな所だけでも拾っておきたい」


 レオンが頷く。


「次の話だな」


「はい」

 フィアナも頷いた。

「冬を越えても、何もしなければまた痩せます」


 広場の向こうで、さっきの子どもがまた声を上げた。


「お嬢さまー! こっち、空いた!」


 今度は迷わず、フィアナはそちらへ向かった。


「今行きます」


 歩きながら、外套の前を押さえる。


 冷たい空気はまだ残っている。

 問題も山積みだ。

 でも、前より足が軽い。


 後ろでは、レオンとセリスが次便の書式を詰めていた。

 近隣領。

 商人。

 修道院。

 そして、その先。


 辺境から外へ向けて、定期の言葉が出始める。

 それは大げさな宣言ではない。

 小さく、乾いた、でも消されにくい線だ。


 その線を続けるなら、次は不足を数えなければならない。


 春が来る前に、何が足りなくなるのか。

 どこから手を打つのか。


 フィアナは木箱の横へしゃがみ込みながら、もう次の机のことを考えていた。


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