第109話 広がる噂
ドレヴァン領の朝は、フェルドより少し乾いていた。
雪はある。
だが山風の匂いが違う。
湿って沈むというより、硬く締まって音を返す雪だ。
ハインツ・ドレヴァンは、暖炉脇の机で封を切りながら小さく鼻を鳴らした。
「今度は何だ」
差し出したのは、北回りの商人だった。
正式な使者ではない。
市場を継いで走る、急ぎの伝えだ。
紙は一枚。
走り書きで、ところどころ筆圧も乱れている。
誰かが座って整えた報告ではなく、聞いたものを落ち着かぬうちに写した類だった。
そこに並んでいたのは、綺麗な結論ではない。
公開査定があったこと。
領都の会議室で、人前に出してやったこと。
ベルクライン令嬢が責められたこと。
だが現場の者たちが反対に立ったこと。
監査使側が結論を出さず、区切ると言って引いたこと。
最後にだけ、書き手の色が少し混じっていた。
――悪女だ何だと言われていた令嬢が、案外ちゃんと回していたらしい。
――少なくとも、フェルド領内ではそういう空気になっている。
ハインツは紙を机へ置いた。
「らしい、か」
「その“らしい”が、今朝だけで三本入ってきました」
と商人が言う。
「昨夜の泊まり商人から一本。谷向こうの御者から一本。今の紙が一本です」
「細部は」
「少しずつ違います。だから逆に、本当にあったことだけは同じなんでしょう」
商人は肩をすくめた。
「でたらめな話ほど、妙に揃いますから」
たしかにそうだ。
作り話は無駄に整う。
人づての本当話は、骨だけが何本も同じで、肉の付き方だけが違う。
ハインツはもう一枚、机の端へ置かれた紙を取った。
そちらは報告というより、荷と一緒に回ってきた覚え書きだった。
フェルドから来た商人が、自分たちのために控えていた短いメモらしい。
北門周りは落ち着きつつある。
鍋場は継続。
村便はまだ細いが止まっていない。
監査使と揉めた。
以上。
味も素っ気もない。
だから、妙に目に残る。
「面白くない文だな」
「商売の文としては、その方が信用できます」
商人は即答した。
「大げさに“完全回復”とでも書いてあれば、誰も本気にしません」
ハインツは少しだけ口元を動かした。
フェルド領は、前まで外へ出る文が鈍い領地だった。
出ても言い訳が多い。
誰が回しているのかも、何がどこで詰まっているのかも見えにくい。
だから近隣も深入りしなかった。
それが今は、監査使との揉め事すら、変に取り繕わず外へ漏れてきている。
隠すより先に、骨だけ出る。
それは少し厄介で、少し興味を引く変化だった。
「エルシュにも回っているか」
とハインツ。
「間違いなく」
商人は頷く。
「薬草便の連中は、こういう話が早いですから」
リディア・エルシュの顔が少し浮かぶ。
あの女領主も、王都の噂だけで人を測る方ではない。
同じ話が届けば、こちらと似た読みをするだろう。
ハインツは椅子へ深く座り直した。
「王都の査定が、現地でひっくり返った」
「それが本当なら、面倒だな」
「フェルドにとってですか」
と商人が聞く。
「いや、王都にとってだ」
地方へ来て、人前で査定をした。
そのうえで、狙った向きと逆へ空気が流れた。
それが広まれば、傷むのは令嬢一人の評判では済まない。
中央の言う“確認”そのものが、少し軽くなる。
北方の領主は、そういう匂いに敏い。
何しろ、軽くされた紙で削られてきた側だからだ。
「返しますか」
商人が言う。
「様子見でも」
「返す」
ハインツは短く答えた。
「ただし、持ち上げるな。探りすぎるな」
「冬の配給継続と街道の様子だけ、実務の顔で聞け」
「えらく乾いていますね」
「噂に乗って近づくと、次に困る」
ハインツは紙の端を整えた。
「だが、今のフェルドが本当にああいう薄いメモを外へ出せるなら、前より話は早いかもしれん」
商人は頷いた。
「では、その形で」
「あと」
ハインツは窓の外を見た。
「南便にも、この話は乗るな」
「もう乗っていますよ」
商人は苦く笑った。
「市場の連中は、北へ回すより南へ流す方が早い」
それはそうだろう。
王都の話は金になる。
だが今は、王都にとってあまり気持ちのいい種類の話ではない。
悪女と呼ばれた令嬢が、実は領地を支えていたらしい。
酒の席なら、そこから先は好きに膨らむ。
ただ今回は、膨らみきる前の骨だけが既に何本も走っている。
それが厄介だった。
「返書を出せ」
とハインツは言った。
「フェルド領都あてだ。次の便でも、街道と配給の様子が分かるなら知りたいとな」
商人が出ていく。
部屋に残った静けさの中で、ハインツは指先で紙の端をもう一度そろえた。
一つの査定がひっくり返った。
ただ、それだけではない。
北方はもう、フェルドのことを“沈んだ領地”としてだけは見なくなるかもしれない。
そして同じ噂は、その日のうちに、もっと厄介な場所へも流れ始めていた。
王都ルクスハイム。
人の値打ちを紙で決めたがる連中の、ど真ん中へ。




