第100話 見たくない現実
翌日は、朝から風が強かった。
雪は飛ばされ、石畳の端で白く渦を巻く。
空は明るいのに、体感は前日より冷える。
監査使一行は、領都の南側区画と、外れの村寄り集住区画を回ることになった。
「もっと王家の便益に関わる施設から見ても」
と年配文官が言ったが、アルノーは今日はそれを抑えた。
「予定通りで」
とだけ言った。
たぶん昨日の紙が効いている。
都合のいい順だけでは、もう済まないと思い始めたのだろう。
最初に声をかけたのは、広場の鍋場へ通っている中年女だった。
マルタが事前に誰かを選んだわけではない。
列の端にいた者へ、その場でアルノーが聞いた。
「今の配給に、不満はありますか」
女は警戒した顔で監査使の衣服を見た。
それからレオンとフィアナを見て、少し迷ってから答えた。
「不満ならありますよ」
年配文官の口元がわずかに動く。
だが女はそのまま続けた。
「少ない日もあるし、待つし、うちの子はまだ腹減らす」
「でも前は、来るかどうかも分からなかった」
「今は遅れても、今日は来るって分かる」
アルノーが静かに聞く。
「それで十分だと?」
「十分じゃないよ」
女は首を振った。
「でも、前よりましだって話さ」
その言い方は、妙に強かった。
次に話した老人も似たような答えだった。
「寒いし、道はまだ埋まる」
「若いのがいない家はつらい」
「でも、今は火の持たない家を見に来る奴がいる」
「前は、寒いまま死んでも誰の帳面にも残らんかった」
若い書記官の手が、そこで少し止まった。
誰の帳面にも残らない。
それは昨日の名簿の話と、綺麗に繋がっていた。
外れの工房区画では、腕の太い職人が、修理途中の鍋を指して言った。
「景気がいいわけじゃねえ」
「だが、直した鍋がちゃんと鍋場へ回る」
「払えねえ家の分も、後で帳面が来る」
「前は、どこへ出したかすら曖昧だった」
そして、没落した家臣筋らしい痩せた男は、少し悔しそうに言った。
「ベルクライン令嬢は厳しい」
「順番を譲らんし、顔でも判断しない」
「だから腹が立つ時もある」
年配文官がそこを拾う。
「つまり、不満が強いと」
だが男は眉を寄せたまま首を振った。
「不満と、間違ってるは違う」
「厳しいが、前よりは回ってる」
「前は、上の顔見て抜く奴ばっかりだった」
監査使の側がまた黙る。
褒め言葉ではない。
熱い支持でもない。
でも、そこにあるのは確かな比較だった。
前よりまし。
前より届く。
前より残る。
それは王都がいちばん処理しにくい種類の現実だと、レオンは思った。
昼過ぎ、集住区画の見回りを終えたところで、アルノーは足を止めた。
風の抜ける坂の途中だった。
下には鍋場の煙が見え、遠くには第三倉の屋根も見える。
「殿下」
と彼が言う。
「正直に申し上げます」
「何だ」
「私は、もっと荒れていると思っておりました」
「荒れてるよ」
レオンは答えた。
「まだ全然、楽じゃない」
「ええ」
アルノーは頷く。
「ですが、“壊れたまま放置されている辺境”ではなかった」
その言葉に、年配文官が少し顔をしかめた。
「アルノー殿」
「事実です」
アルノーは短く返した。
「認める認めないの前に、まず見たものを言うべきでしょう」
珍しい場面だった。
少なくとも、アルノー・ルグランという男は、完全な愚か者ではないらしい。
ただし、それと正しく書くことは別だとも、レオンは分かっていた。
夕刻、監査使一行は領主館の客間へ戻った。
表向きの視察は終わりだ。
残るのは報告書だけ。
セリスは廊下の角で、小さく言った。
「ここからが本番です」
「だろうな」
「見たものと、書かれるものは一致しません」
「王都では、よくあります」
「知ってる」
レオンは答えた。
「前世でもあった」
会議室の灯りが落ちる頃、客間の一つでは、もう報告の下書きが始まっていた。
年配文官が文言を並べる。
『一部に改善の兆しは見られるものの』
『依然として非常対応の域を出ず』
『辺境伯家実務の過度な集中は、継続性に疑義あり』
アルノーは黙って聞いていた。
間違ってはいない。
だが薄い。
午前と午後に見た現実の、都合の悪い厚みだけが削られていく書き方だった。
「“一部に改善”では弱すぎませんか」
と若い書記官が、思わず口にした。
部屋が静かになる。
年配文官がゆっくり彼を見る。
アルノーも視線だけ向けた。
「何がだ」
と年配文官。
若い書記官は少し喉を詰まらせたが、それでも言った。
「配給到達率、門の襲撃減、名簿修正、役割分散」
「少なくとも、偶然の小改善ではありません」
「現場で回す仕組みへ寄せていると――」
「君」
年配文官が声を切った。
「報告は感想文ではない」
若い書記官は口を閉じた。
だが手元の控え紙だけは離さなかった。
アルノーはしばらく黙っていたが、やがて低く言う。
「……文言は後で整える」
「今は事実欄を詰めろ」
それは庇ったわけでも、正したわけでもない。
ただ、完全には切り捨てなかった。
若い書記官は小さく頷き、机の端の控えへ目を落とす。
そこには、昼に聞いた言葉が走り書きで残っていた。
前より来る。
前より残る。
誰の帳面にも残らないままではなくなった。
それをどう書けばいいのか、彼にはまだ分からない。
だが少なくとも、“一部の兆し”だけで済ませるのは違うと思った。
夜更け、客間の灯りが一つずつ落ちていく。
最後に残ったのは、書きかけの下書きと、机の端へ避けられた別の控え束だった。
若い書記官はそれを見下ろし、しばらく動かなかった。
やがて誰にも聞こえないくらいの小ささで息を吐くと、控え束の一枚をそっと折り、別の紙筒へ滑り込ませた。
報告は、まだ王都へ出ていない。
けれどその時点で、領都の外へ出るのは一つの報告だけではなくなっていた。




