第64章
食事の後、花蓮はいつものように腕枕をしてくれと、せがんだ。
正夫の腕の中に身体を置くと、「こうしているのが一番幸せ」と言った。
「美鈴さんの事件の時ね、私、本当にとても恐かったの。誰かに話を聞いて貰いたかった。でも、相談出来る人は誰もいなくって……。その時、川村さんのことが浮かんだの。その前にけんか別れみたいになってたので、すごく連絡しにくかったんだけど、冷たくあしらわれても仕方ないって思ったんだけど、川村さんは嫌がったり、面倒臭がったりせずに、真剣に相談にのってくれたよね。
あの時、思ったんだ。美鈴さんは頼れる人が誰もいなかったけど、私には川村さんがいるって。頼れる誰かがいるってことが人生で一番幸せなことじゃないかって。……それが結婚しようと思った一番の理由かもしれない」
花蓮は上体を起こすと、顔を寄せ、軽く唇を重ねてきた。
それから再び、正夫の腕に頭を載せると、表情を曇らせて尋ねた。
「ねえ、こういう仕事をしている人は一度足を洗っても、またすぐに戻ってくるっていう話を聞くけど、どうしてそうなるのかしら?」
「うーん。それは僕にもよく分からないけど、一つにはお金のことがあるんじゃないかな。今まで一杯お金を稼いで、使い放題だったのが、普通の仕事ではそんなに給料は貰えないからね。自分が自由に使えるお金はほとんどなくなる。でも、君は弟さん達の学費を払うために勤めていたんだから、それは大丈夫だと思うよ」
「ううん、私ね、弟のためだといい子ぶってるけど、ホントは自分もお金が欲しかったの。綺麗なお洋服やブランドのバッグを買いたかったし、海外旅行も行きたかったし……」
「大丈夫だよ。そのぐらいの贅沢は、最近の若い子はみんなしていることだから」
「うん、そうよね」
彼女は頷いた。
「次に、刺激がないっていうこともあるかな。一人で家で主人の帰りを待つ生活てのは退屈なもんだぜ」
「それは大丈夫だと思う。私、子供の頃、習い事をしたことがなかったから、お稽古事をするのが楽しいんだ。いっぱい色んなことを習おうと思うの。でも、そのお金を旦那さんから貰うのは悪いから、彼が許してくれるんだったら、パートで働こうと思ってる。スーパーのレジとか店員さんなら出来るって思うから。……他に何かないかな?」
その問いには答えずに正夫は別のことを訊いた。
「彼とはもう済ませたのか?」
「済ませたって、何を。……あ、セックスのことね。もう、エッチなんだからあ」
それから、澄ました顔をして言った。
「まだそんなことはしていません。キスは許したけど、セックスはしていません。一度彼が求めてきたことはあったけど、結婚するまでは出来ませんって断ったの」
正夫は、たびたび「本番」をせがんだが、その度に決まって、「それは出来ないことになってるの」と拒絶されたことを思い出した。
柔らかな口調だが、有無を言わさね動かし難い響きがあり、あの調子で言われたら、若い男なら、あっさり白旗を上げるしかないなと思った。
しょぼくれた様子の若い男の姿が目に浮かんだ。正夫は見知らぬ婚約者に同情と親近感を覚えた。
しかし、奇妙なものだと思う。彼女の本名も住んでいるところも何も知らない自分が彼女の身体の隅々まで知っていて、それらを全部知っている婚約者が彼女の身体に関しては何一つとして知らないなんて。
「私、カマトトぶっている訳じゃないけど、結婚する人とは初夜に初めて結ばれたいっていう夢があるのです。
あと、ホントはこっちの方が大きい理由なんだけど、身体を許したら、風俗やってたことがバレるんじゃないかって、それが恐いの。
でも、私が拒否したのを彼は勘違いしたみたいで、私が処女じゃないかと思っているみたいなの。どうしょうかって困っちゃう」
「確かに君は清楚だし、若くも見えるけど、二十六の、それも君のような色気のある女性を処女だって思うなんて、その男はよほど世間知らずなのか、無知なのか、どっちかだな」
「そんな言い方しないで。彼は純粋なだけよ」
「でも、心配はいらないよ。君の身体はきれいだし、マグロのように横になって、なにもしなかったら分からないよ。彼の体の上に馬乗りになって、腰を前後に振りながら、「気持ちい?」って聞いたら、そりゃあ、バレるだろうけど」
「バカ。そんなことする訳ないじゃない。……でも、出血しないとバレるよね?」
「処女膜再生手術ってのもあるらしいけど、そこまでしなくていいよ。処女だって、出血しない場合もあるそうだし、黙っていたら何も言われないさ」
「初めてじゃなかったんだ、なんて聞かれたら、どうしたらいいの?」
「黙って答えなけりゃいいんだ。それか「そんなことは聞かないで」って悲しそうに言ったら、君を本気で愛していたら、それ以上は何も聞けないさ」
「そんなもんなの?」
「そんなもんさ。心の底から愛しているなら、処女か処女でないかなんて、どうでもいいことだよ。間違いないよ」
花蓮は「ふーん」と呟くと、黙りこくった。何かを考えている様子であった。それから、ふと思いついたように顔を正夫の方を向けて、言った。
「ねえ、前に私のことをレンゲ草みたいだって言ったことがあったよね?」
「うん、二度目に店に来た時だけど、確かあの時君は眠っていたんじゃなかったのかな?」
「うん、ウトウトしていたけど、ちゃんと聞いていたよ。ねえ、レンゲ草っていつ咲くの?」
「春の花だから、四月には咲くんじゃないかな。僕の住んでいる町は暖かいから、年によっては二月の終りには咲き始めることもあるけど」
「彼の実家の周りにはいっぱい田んぼがあるの。あの田んぼにもレンゲは咲くのかな?薄紫の花が絨毯みたいに田んぼ一面に咲くんでしょ。きっとすっごくきれいな景色ね。私、生まれも育ちも東京だから、そんな景色は見たことないの」
「さあ、種を蒔くかどうかだけど、レンゲは肥料になるから色んな地方でも蒔くのじゃないのかな」
「へぇー、レンゲって肥料になるんだ。きれいなだけじゃなく他のものの役にも立つんだ。ステキな花ね。私もそういう風になりたいな」
そう言ったきり再び黙ったかと思うと、花蓮は小さな寝息を立て始めた。
その寝顔は満ち足りた幸せそうなものだったが、正夫は彼女が不安になっているのに気がついていた。
先月来た時は、良い母親になるんだって、あんなにはしゃいでいたのに、いざ夢が現実味を帯びてきたら、怖じ気づき不安に駆られるようになったのだろう。
正夫はふと、以前本で読んだレンゲの花言葉を思い出した。
「あなたと一緒なら苦痛がやわらぐ」
彼女は自分の枯れかけていた心に生気を与えてくれた。
しかし、自分は彼女の苦痛をやわらげることが出来たのだろうか?
彼女には彼女なりの完結した世界があったのだろう。
そこにたまたま自分という闖入者が現れた。
それまで彼女の周りにはいなかった典型的な小市民であり、健全な社会の代弁者であり、ささやかなことに喜びを見出している平凡な家庭人である、この自分が。
それが彼女の世界に穴を開け、現実の風を引き込み、彼女の世界を変えてしまったのではないだろうか?
果たしてそれは彼女にとって、幸せなことであったのだろうか?




