第8章 父娘の相談
雪が降ったある日、愛音は博之と会う約束をしていた。愛音は電車で博之の住む町まで来た。クリスマスのイルミネーションが、それほど豪華でもなく飾りつけられた、駅前の街路樹が見渡せるロータリーへ、エスカレーターを降り立った。そこは初めて愛音が博之に会った場所だ。当時はまだエスカレーターがなく、階段の途中で博之と目が合ったことを思い出していた。
今朝から除雪された雪が積まれたロータリー中央の駐車スペースに、博之の車はなかった。愛音は白い息を空中に吹き込むように吐いて、どうやって時間つぶしをしようかと考えていると、クラクションの『プッ!』と軽い音がした。すぐ近くに黒い商用バンが停まっていて、その運転席に、ニヤニヤ笑う博之が乗っている。
愛音はすぐさま駆け寄り、助手席のドアを開けた。
「何この車?」
「会社の。今忙しくって、現場仕事も手伝ってるから」
「部長なのに?」
「小さい会社だもん」
「お腹空いてる」
「うちに来るか?」
「知子さんは、ちょっと苦手」
「そうか」
「前に、おいしいビストロがあるって言ってたでしょ。そこがいいな」
「洋食Shi-ba」
「そこそこ」
博之は車をゆっくり出した。
「今日はね。真剣な話があるの」
「結婚についてか?」
「うん(笑)」
「いい話と悪い話のどっち?」
「悪い話に決まってんじゃん」
「決まってんのか」
博之は愛音の顔を見ずに、また降り始めた雪がフロントガラスに落ちてくるのを見上げながら、2回頷いた。そして、信号待ちを利用して、スマホを取り出すと、
「もしもし、木田ですけど。どうもこんばんわ。・・・・・・こちらこそ、いつもありがとうございます。今からなんだけど、席空いてますか?」
「そうか、クリスマス前で混んでるのね」
段々と大粒になる雪を見ながら、助手席の愛音が独り言を言った。
「カウンター席でもいい?」
博之は愛音に目配せして、
「う、うん」
と少し困惑したように答えた愛音の顔を、ようやく見ることができた。
「じゃ、それで。10分後くらいに着きます」
クリスマスと言っても田舎町じゃ、それほど盛り上がるわけでもなく、平日の晩は、人気のビストロでも、予約で満席ということはなかった。
店に着くまで、二人はあまり喋らなかった。店のガレージに車を停めると、店主の奥さんが見送りのため、客に傘を差して出てきていた。博之が車を降りると、
「いつものベンツじゃないから、分かりませんでしたよ」
と言いながら近づいてきて、助手席側に回った。
「会社の帰りで、社用車で来ちゃいました」
「あ、じゃ、部下の方?」
奥さんはそう言うと、愛音をその傘に入れてくれた。
「そうじゃないです。えっと・・・」
こんな時はいつも、単に自分のピアノ講師だと言うことにしている。
店内に入ると、二人はカウンター席に案内された。
「うわ、この肉すごー」
愛音は、カウンター席の傍らに置かれた大きな豚の足を見て言うと、店の奥さんが、
「イベリコ豚の生ハムですよ。いかがですか?」
愛音は、博之を見た。博之は微笑んで、
「じゃ生ハム頂戴」
「ワインは、いつものカベルネの赤ですね」
「ああ、お任せで」
博之はいつも、ワインアドバイザーの資格を持つ彼女に任せるようにしているのだ。
「また車置いて帰っていいですか?」
「もちろんです」
「ありがとう。奥さん」
博之はこの女性を奥さんと呼んでいる。ママと呼ぶには少し品が良すぎる女性で、少し低音の落ち着いたかすれ声が魅力的だった。ご主人はこの店のオーナーシェフで、常に厨房に入っていて、博之は言葉を交わしたことはほとんどない。
「ねえ、パパのお勧めは何?」
「コース料理より、アラカルトで何品か頼んでみる?」
「そのほうがいい」
博之は、『スズキと水ダコのカルパッチョ 和風サラダ仕立て』『地鶏もも肉の自家菜園ハーブソテー』と、『地元で採れた西洋野菜の炭火グリル』を注文した。
「寒いからスープも飲みたい」
「ああ。奥さん。今日のスープ何?」
「『塩トマトのミネストローネ』です」
「じゃボウルでひとつ」
「かしこまりました。お取り分けで」
「それで足りるかな?」
博之は愛音の食は細いので、これくらいで十分かなと思った。
「多分足りない。お肉もっと食べたい」
「ええ? 『フォカッチャ』も付いてるけど、やけ食いする気?」
「そう」
「・・・そうか。じゃボリュームのある『エビと豚のカダイフ焼き』にしよう」
「それおいしそう」
「じゃ、飲もうか?」
「うん。でも、ワインじゃなくって、カクテルがいい」
「なんだ? お前。今日すごく甘えてくるな」
「そんな気分なの」
「じゃ、『ジンバック』はどう?」
「それおいしい?」
「この店、ジンジャーエールが自家製なんだ。ほら」
博之はカウンターの隅に陳列されている小瓶を指さして言った。それは生姜の砂糖漬けだった。
「これが入ってるの?」
「このシロップだけだよ。ジンに炭酸で割るんだ」
「それ飲みたい」
二人は取りあえずグラスを持ったものの、
「乾杯してもいい話なのか?」
「はいはい。いいよ。カンパーイ」
愛音は、陰りのある笑顔で強気に振舞った。
「パパとしっかり飲んだことないね」
「そうだな。俺ちょっと遠慮してるからな」
「私だってそうだよ。知子さんに悪いから」
「知子は、逆に気を使ってるけどな」
「私なんか、邪魔でしょ」
目を瞑って、背もたれにのけ反るようにして言った。
「何言ってんだ。そんなわけないだろう。先生との大事な娘だと思ってるよ」
店の奥さんが近くに来て、少し小声になったので、わざと大きな声で、
「生ハム食べてみ。水分が飛んで、味が凝縮されてて美味しいんだ」
「パルメザンとルッコラと一緒にどうぞ」
奥さんが低い声で勧めた。
「へえ、パルメザンチーズのスライスも。こんなお洒落に食べたことない。見られてると緊張します」
愛音は体良く、奥さんを追い払った。そして、
「私ね。結婚やめようと思うの」
「・・・どうして?」
「性格が合わないわ」
「よかったじゃないか」
「え?」
「結婚する前に気がついて」
「うーん」
「向こうの両親にも、正式な婚約とかする必要があるって言われてたんだろ。その前でよかったと思うよ」
博之はなんだか、気が楽になったように感じた。
「ごめんね。保証人とか面倒なこと相談してたのに」
「そんなこと気にしなくっていいさ。それより、拓君とはちゃんと話着いたのか?」
「・・・まだ、話してない」
「そういうことか。同居してしまってるから、また面倒なことになりそうなのか?」
「面倒なこと。うん」
愛音は、グラスを持って、ジンバックを一口飲んだ。
「うわ。美味しーい」
「ここのジンバックは特別だよ。他所で飲んでも、こんなに美味くないな」
「なんだろう。私、こんな風に優雅な食事なんてしたことない」
「先生は、お前を育てるだけで必死だったんだろう」
「お母さん、無理してた」
「だから、お母さんの分まで幸せになってほしい」
「ダメだわ。私、結局お母さんと一緒」
「何が?」
「やっぱり、幸せな家庭なんか持てないな」




