第7章 ことの本質
「秋日子、ここしっかり読んでみ」
博之は最近ようやく、帰宅後や休みの日に、娘の勉強を見てやる時間を持てるようになっていた。
(俺の時代とは、大分様子が変わってるな)中学受験と甘く見ていたが、国語や算数といった型どおりの問題ではなく、子供の読解力やひらめきを問う、まるでクイズのような問題が多いことに驚いた。
「違うの。これはあんまり関係ないって。問題文読んだら解るじゃん」
「でも趣旨は、Bさんの意見をみんながどうまとめたかだから、AさんとCさんの意見も比較したほうがいいでしょ」
「そんなの書いてたら、200文字で終わらないから」
「十分書けるだろ」
「そんなにたくさんのこと、まとめられない」
(どうしてテスト問題なのに、隅々まで読まないのかな?)と疑問に思う博之は、最近の小学校の教育方針ってそんなものなのかと、不安を抱いてしまう。
「怒ってないで、取りあえずやってみ。できなかったら、どうしたらできるか考えて、書き直していけばいいでしょ」
「テストで、この問題だけ、そんな時間を使えないから」
「そうか。じゃ思うように書いてみようか」
「ふーーん!(憤)」
(なるほど、経験不足ってのはこういうことなんだ。できないと思ってるから、やろうとしない。時間や心に余裕がないから、できるようにもしない。この子はまだ小学生だ。それも仕方ないのかもしれないけど、こんな考えのままの大人が多いのは恐ろしい話だ。会社の採用試験に、この文章題を出してみてもいいかもな)
「あなた、ありがとう。秋日子の勉強見てくれて」
「ああ、結構工夫が凝らされてるんだな。最近の受験問題って」
秋日子がベッドに入ってから、博之と妻の知子がダイニングテーブルで、ウォッカにライムを絞りながら話している。
「志望中学が偏差値高いから、あの子も不安になってきてるのよ」
博之はグラスを揺すって、氷をカランカランと回した。
「十分合格圏内だから、心配ないって言ってるんだけどな」
「やってもやっても、やり足りない気がするんだって」
「スゴイ。それは、トップ目指してる人間の感覚だ」
「中学受験は1回限り、絶対ミスできないからメンタルが大事でしょ。あの子はそこが弱いから」
濃い目のアルコールを口に含み、ぎゅーっと舌で味わってから飲み込んだ。
「メンタルか・・・」
12月になり、事務的な業務も増えてきて、博之は残業で遅くなることも多くなってきた。新映像チームを早く帰らせるために、自分の業務は後回しにしてまで手伝うのかという批判もあり、悩みの種は尽きない。でも今日は企業監査の準備で、小原が残って手伝ってくれている。
「もう投げ出したくなってきた。くっそー」
「頼むよ小原、今逃げられたら俺もう死ぬ」
「まあ、そんなことしませんけど。今朝は3人に思いっきり言ってやりました。現場は殺伐としたと思います」
「言わないといけないことは、言わないといけないけど、言い方。それ大事」
小原の怒りにたじろぎ、何とか宥めようと、おろおろする博之。
「聞くほうの態度も大事だと思います。言いわけばっかりしやがって、あいつら」
拳を握り締め、歯を食いしばる小原。
「奥歯砕けそうです」
「よし! 俺の手を殴れ!」
博之が、手の平を広げて、小原に向けると、
「おし!」
バチーン!
小原は力いっぱい、グーパンチした。
「痛ー。お前、地はそんなだったっけ?」
予想外のパンチ力に、手の平をブラブラ振りながら、しかめっ面で言うと、
「そうですよ。ドラえもん被ってただけですよ」
少し笑顔を見せる小原だった。
「結構いい女なんだから、もっと冷静に澄ましてたほうが」
「分かってます。そのほうが男受けいいって。でも木田さんの前だからこうなれるんです」
「俺も男なんだけど、そう見られてない?」
「そうじゃなくって、逆に素の自分を見せられるってことです」
「ああ、それなら、まあ安心」
「木田さんて、色んなこと考えないといけないですよね」
「ああーん、考えてるというか、気を使ってるって感じだけど」
「大変ですね。部下が多いと」
「30人以上だから、なかなか全員の心配まではできないし、きっと中には、自分のこと気にかけてもらえてないとか、思ってる人もいるだろう」
「だから中間管理職が必要なんですよね」
「そうなんだよー」
「ああ、でもダメだぁ。私はそれ失格だった」
椅子の背もたれに大きくもたれかかる小原。
「よく意識してやってくれてるよ」
「そんなことに気づいたのが、つい最近。木田さんの思いを受け取ろうともしてなかった」
「そりゃ、下から上司の思いを汲み取ろうってヤツなんか、いるわけないよ」
「でも私が上司としての振る舞いも、全然してこなかったから、あいつらに舐められるんです」
「俺もおんなじ。みんなと仲良くやっていきたいと思うけど、きつく言うと反発を買うし」
「そうですね。つらい立場ですね」
「お前もな。退職前に、こんな役回りさせてごめんな。地を出させたりして」
「いいえ、外の世界では、またいい女を演じますから大丈夫です! 私、本気出したら、男の人に目からキラキラビーム出せますから」
「メンタル強いな」
「来週の忘年会なんですけど。あの子らに言ってほしいことがあるんです」
「何?」
「私が退職した後、『木田さんの力になってくれ』って、言ってほしいんです」
「どうしてそんなことを?」
「夏ごろ、木田さんからそう言われて、やっと本気になれたんです。私が木田さんから頼られてると思うと、うかうかしてられないって」
「ああ、『牡蠣小屋』ででしょ。あの頃はまだ小原の退職まで時間があったから、気分的には余裕だったけど、今そんなこと言うと悲壮感あるよな」
「そうですね。逆にあの子らに断られたりして(笑)」
「有り得るぞ。それ。(笑)なんか『逃げ道与えないぞ!』みたいな感じもするし。訊いたら終わりみたいな」
「一か八かですね」
「先行き不安なこと多すぎる」
「先行き不安と言えば、愛音さんの結婚は、どうなったんですか?」
「ああ。まだあれから何も言ってこないし。よく分からないけど、婚約解消ってことはないと思う」
「絶対、止めるべきだと思いますけど、家族でもないのにそんなこと言えないですもんね」
(うっ。辛い。親子なんだけど)中途半端な自分にイラつく博之である。
「そうだね。本心では別れたほうがいいんじゃないかと思うんだけど、彼女の気持ちを考えたら、そう簡単には言えないでしょ。やっぱり」
「どうして愛音さんと、そんなに親密になったんですか? 歳も離れてるのに、なんか怪しいと思っちゃうんですけど」
「え? 怪しいってどういうとこが?」
「もうピアノレッスンは受けてないのによく会われてるみたいだし、好きなのかな? って思ってたんですけど、愛音さんのこと話される時、なんかこう・・・親身になってるって言うか」
「それはね、愛音が僕の恩師の娘さんだからだよ」
「でも、それだけじゃ、そこまで真剣になれるのかなって思うんですけど」
(やばい、小原には愛音のこと、事細かに相談し過ぎたかも)
「だから、恩師中の恩師なんだ」
「どういう意味ですか? 先生と付き合ってたんですか?」
「いっ!? そんなわけないだろう。中学の時だよ」
「でも何か、ありそうですね。その雰囲気が怪しい。私の同級生でも高校の時、教師と付き合ってる子いましたよ」
「えっ? それアウトじゃない?」
「完全アウトですけど」
「本当は、お前のことじゃないだろうな」
「わたし・・ではない・です」
「うん? 今の言い方こそ怪しかったじゃないか。本当のこと言っちゃえよ」
「いえいえ。本当に私は関係ないですよ」
「本当に? でもちょっとその話面白そう。詳しく教えてよ」
「ええ、その子と仲良かったから、その先生、私にもバレてるの分かってて、私をカムフラージュに使おうとするんですよ」
「どんなふうに?」
「その子とばかりいたら、周囲に怪しまれるから、わざと私にも慣れなれしくしたりして」
「へえ、なんか嫌な教師」
「でもいい人でしたよ」
「それでもそんなふうに思えるの?」
「ええ」
「自分の相手でもなかったのに?」
「まあ」
「・・・・・・」
ちょっと横を向いて固まる博之に、
「何考えてるんですか?」
「いや、普通、そんな教師には嫌悪感抱かない?」
「あ、それは悪い先生だとも思いますよ」
「二人の交際が真剣なものだったとしても、周囲からしたら受け入れがたいって思うんだけど」
小原の話し方に、何か違和感を覚えた博之。
「それはそうですね。そこまで深く考えてたわけじゃないです。へへへ」
「うん? 実は小原も、その先生と何かあったでしょ」
「やだ。そんなことあるわけないじゃないですか」
目を大きく見開いて、笑顔で答える小原は、
「木田さんこそ、その先生とはどういう関係だったんですか」
と、少々強引に矛先を変えてきた。
「俺は物凄く感謝してるんだ。それに物凄く好きな人だったから」
「女性としてですか?」
「うん。先生としてなんか見てなかった」
「どうしてそうなったんですか?」
「ひとみ先生って言うんだけど、初めて教室で会った時から、可愛いって思ってて、そのうちに好きになって・・・」
「特別な思い出とかもあるんですか?」
「うん。でも俺のそんなこと聞いて面白い?」
博之はこの思い出を小原に話していいものか、少し迷った。
「すっご興味あります。なぜ、愛音さんのこと真剣になれるのか、知りたいです」
「うん。まあ俺、ひとみ先生にもね。昼休みにピアノを教えてもらってたんだ」
「先生と愛音さん、親子2代でピアノ教わってたんですか」
「ふふ、先生に気に入られたくて、必死だったんだろうな。でも、とても俺に親切にしてくれる人だったから、それが先生としてじゃなく、女を感じさせる何かがあったんだと思うよ」
「初恋みたいな感じですか?」
当時の記憶をたどり、博之は目を細めて思いを巡らせた。
「そうだね。他にも好きな女子はいたけど、その時期は先生を独占したかったな」
「でも、それだけじゃ恩師中の恩師にはなりませんよ。何があったんですか?」
「ああ? ひょっとして俺を罠にはめようとしてる?」
「ふふふ、やっぱり愛音さんじゃなくって、先生のほうと何かあったんですね!」
「いやいや、そんなことはないさ。大切な思い出なだけだから」
「どういうことがですか?」
もう話を打ち切るには遅すぎた。面と向かって、前のめりに訊いてくる小原に、博之はまんまと乗せられてしまったのだ。
「いやー。実はね、ピアノを教えてもらってた時に、音楽室で怪しいことしてるって、噂になっちゃってね。もちろん、そんなこと全然してなかったよ。なのに、俺に付きまとってた同じクラブの女子が、ひとみ先生に文句を言うような事件があって・・・」
「はー。その頃の女子は見境なくなりますからねぇ」
「でも先生、そんなことに怯まず、逆に女心に火が着いたみたいで、バスケ部の練習中に、俺の応援までしに来るようになったんだ」
「ひとみ先生やりますね」
「だろ。俺も勘違いしてしまうわな」
「で、単に仲がいい先生でした。って話じゃないですよね」
(コイツひょっとして、ひとみ先生との肉体関係とかまで、かなり深く想像してしまってるな。何とか食い止めておかないとマズイ)
「この話の流れでしたら、キスぐらいはしてそうですよね(笑笑笑)」
「中学生だよ。そんなことするわけないよ」
「木田さんがそうでも、ひとみ先生のほうが、もう、突っ走っちゃってるじゃないですか」
「そうか。お前、頭いいな。いつも本質的なとこ突いてくるよな」




