第5章 悩み深まる秋
10月も半ばを過ぎ、朝晩冷え込むことも多くなって、風邪を引く社員が目立ち始めた。
(この繁忙期に、易々と休まれたら堪ったもんじゃない)朝、リビングに下りてきた博之は、出勤前の身支度をしながら、こう考えていた。
「あなた、もう上着、ダウンとか要る?」
「ダウンはまだ早いよ。俺は事務所にいることがほとんどだから」
「じゃ、秋コートとロンティー(長袖Tシャツ)出しときますよ」
「ありがと」
「今日も帰り遅くなるの?」
「ああ、10時頃かな」
「秋日子の勉強を見てやって欲しいんだけど、無理ね」
「秋日子、何かあったの?」
「中学受験模試でテストはA判定なんだけど、作文が苦手みたいで悩んでるのよ」
「あいつ口下手だからな。論理的な説明が下手だろう」
「あなた、論文とかも書くでしょ。少し相談に乗ってやって欲しいの」
「ああ、分かった。できるだけ早く帰れるように、がんばってみる」
とは言ったものの、自信のない返事だった。
博之は、出勤のため家を出て、車の運転をしながら、ぼんやりと考え事をしていた。
(秋日子は本当に、中学受験大丈夫なんだろうか。勉強には俺も口うるさく言ってるけど、実際に横に付いて見てやることは、ほとんどないな。仕事に関しては、しっかり目を光らせておく癖がついてるのに、家のことは案外放置してしまってるのかも知れないな。家だけじゃない、愛音のことだって心配なのに、こちらから何もしてやれていない。どっちも父親失格だな)
いつもの川沿いの土手の狭い道路で、車窓から見える桜の葉が黄色く変化しているのに気づいた。
(愛音と初めて会った時と同じ季節になったのか。あれからひとみ先生が亡くなって、お互い遠慮しながら生きてきたけど、愛音とはこれ以上は、近寄るようなこともないのかな)
博之の車は、赤信号で停まった。博之は横の川を眺めている。川の水が多いのは、週末に来た台風の影響だ。
(台風で少し遅れ気味だけど、新映像チームも何とか動きだしたのに、丸ちゃん(丸川係長)は今だに頼りないし。今から増員したら、またトレーニングで手間がかかって、コストも嵩む。利益はまだ出ないかもしれないな。こんなことを悩んでるのは俺だけで、誰も売り上げなんか意識してないだろうし。小原ならその辺は分かってるだろうか。あいつが退職するのは本当に残念だ。あと2ヶ月程しかない)
いつもの慣れた出勤ルート。踏み切りで一時停止をするのを忘れて、うっかり素通りしてしまった。幸い遮断機が下りるようなことはなかったが、
(危ない危ない、ぼんやりしてたな。気をつけよう)
「丸川係長、まだ文句言ってるんですか?」
今日もミーティングと称し、博之と小原の愚痴会が始まっている。時間は18時頃だが、もう日も短くなり、電灯の点いていない食堂は薄暗かった。
「文句じゃないよ。やれるって自信がないから、逃げてるだけだよ」
「木田さんならできますか?」
「俺だったらできるとか思わないよ。うまくいかないなら、方法を変えて乗り切るだけ。誰がやっても同じだよ」
「そこまで本気出すかどうかですよね」
「小原はどうなの、業務の引継ぎ」
「なんか皆から避けられてるみたいで、作業の完了報告もろくにないんです」
「大体皆、そんなもんだよ」
「私嫌われてるんです」
「上に立つ者の宿命みたいなもんかな。お前だって、命令ばっかりする俺のこと嫌いだろ?」
「それは・・・仕事ですから」
「皆、忙しい時ほど逃げたがるもんで、暇な時ほど頑張ったふりするもんだよな」
「仕事だろ!って言いたくなります」
「意識の低い人が育つには、指導し続けるしかないんだ。地位を与えても、責任のある業務を任せても、頑張るわけじゃない」
「失敗して給料下げられるの嫌だと、思ってるからですよね」
「そんなこと思うの? 実際は基本給って、そう簡単には下げられないんだよ」
「そうなんですか?」
「うまく仕事すれば、評価が上がって査定が上がる。でも、失敗しても評価は下がるけど、給料は減らせない。それは逃げて誤魔化してる人でも同じ。結局はうまくできたとこしか、給与査定には結びつかないんだよ」
「そうなんですか。てっきり、失敗したら責任取らされると思ってました」
「うちの会社で基本給が減った人なんかいる?」
「手取りが減った人って、いましたよね」
「それは担当業務が変われば、その業務に必要だった手当てはなくなるよ。でも基本給は頑張った人は上げてるけど、途中で頑張らなくなっても、一度上げたものは元に戻せない」
「皆『そこまでするほど給料もらってない』とか言う割には、上がるように頑張る人って、なかなかいないですよね」
「思い切ってやればいいのに、いつも一般社員にはチャンスしかないんだから。でも、俺みたいな管理職は別だよ。今年の成績が、思いっきり来年の年俸に響くから」
「それって気が休まらないですね」
「俺の給料が上がる時は、皆の給料とボーナスが上がった時なんだけどな」
「それなのに皆、非協力的なんて、木田さん大変ですね」
「解る?」
博之は、暗い部屋の非常口サインの明かりが、小原の横顔を照らしているのを見ていると、より可愛く見えて、気分が癒されていくのを感じていた。
「あ! もうこんな時間だ。今日は早く帰りたいんだ」
「すみません。私の愚痴に付き合わせてばっかりで」
「そんなことないよ。小原と話してると楽しいから」
大急ぎで事務所に戻り、誰もいないその部屋の後片づけをする博之と小原だった。
「もー! 腹立つー! ちょっとは協力してよ」
「愛ちゃん、何怒ってんだよ」
「拓君、少しぐらい片づけもしてよね」
「またすぐ使うから、片づけないでくれよぉ」
「ゲームのコントローラー、ソファに置きっぱなしじゃない」
「じゃ、テーブルの下に入れといてよ」
「そこじゃ丸見えでしょ」
ソファの横のローテーブルは、ガラス天板である。
「食べた後の袋とか、ビールの空き缶とか、ちゃんとゴミ箱まで持っていってよね」
「はいはい、分かりましたよ」
拓君がテーブル横のゴミかごに入れようとすると、
「そこじゃない! 台所のゴミ箱!」
「もう! どこでも一緒じゃん」
「そこに捨てたら、私が移し替えないといけないじゃない」
「うるさいなぁ」
(!!! うるさい?)
[ねぇ、聞いてよパパ! 拓君ムカツクの!]
「どうしたの? ケンカしたのか?」
[ケンカじゃないわ。拓君って、私の家に何し来たのかよく分からない]
「ちょっと待って、車停めるから」
帰宅途中に、愛音からの電話に出た博之は、彼女のすごい剣幕にタジタジだ。小原とのお喋りで、癒された気分も台無しである。
「えっと、何しにって、一緒に暮らすために呼んだんだろ」
[そうだけど、結婚するまでに、同棲してみたいって言うから]
「そういうのが楽しいんじゃないのか? 何がダメなのか言ってみなよ」
[拓君ってね、ダラダラしてばっかで、何もしないの。ホントに、な・ん・にもしないの]
「お前だって、めったに掃除とか料理もしないって言ってたじゃないか」
[それはそうだけど、部屋散らかしたり、服脱ぎっぱなしにしたりはしません。食べたままとか]
「あ、そのレベル? 結婚までにちゃんと教育しとかないと、大変なことになるぞ」
[何回言っても、ダメなんだもん]
「できるようになるまで、言い続けるしかないから」
[そんなに根気強くないし。この前なんか・・・・・・]
この前はこんなことがとか、お母さんの前ではどうだったとか、延々と愚痴をぶつけてくる愛音を、さっきまで一緒にいた小原と比較して聞いている博之だった。一通り愚痴を言って、静かになったところで、
「なあ、俺の会社でもな、全然真面目に仕事しないやつが多くて、大変なんだ。でもそんな奴でも親切丁寧に指導していかないと、仕事にならないんだよ。ましてや拓君は婚約者じゃないか、ちゃんとして欲しいようにお願いして、分かってもらうようにしなくちゃ」
博之は、(こういう話は苦手だな。相手が信頼してくれるようなことを言わないといけないのって、逆にプレッシャー感じるんだよな)とか考えながら、どういう結論に達したらいいのか迷っていた。
「そんなことより、式場選びはどうなってるんだ?」
[・・・んーーーん。もうどうでもよくなってきた]
「なんてこと言うんだよ」
[3カ所見てきたけど、二人で行ったの1カ所だけ]
「なんで?」
[全部一緒に行くはずだったのに、一回は拓君が休日出勤になって、もう一回はその日の朝に、行くのやめるって言い出して]
「なんだそれ」
[でしょ! それでも一人で行ってきたわよ、私は]
「お前の気持ち解る。一人だけ残って、作業現場の後片づけ押しつけられる時と同じだな」
[大人のナリした子供かっての!]
「そんなヤツ、世の中に多すぎるよ。しっかりとリードしていくような男を捕まえんかい!」
[ぇえ! 私、パパみたいにガンガンいく人も苦手だし]
(え? そうなの? 俺のことそんなふうに思ってたの?)と博之は、愛音とはそれほど親密に付き合ってきたわけじゃないのに、たまの会話だけで、苦手意識を持たれるほど、自分がくどい人間なのかと、不安になった。(仕事上でも、相手のためにしてるのに・・・ひょっとして小原にしているアドバイスとかも、相手はウザイと思っているのだろうか?)
[もしもし? どうかしたの?]
「いや、俺のこと苦手とか言われたし」
[え? そんな意味じゃないよ。パパ。ごっめん]
「ただいま。秋日子は?」
「おかえりなさい。もう勉強疲れで、ソファで寝てしまったわ」
「ソファで?」
「パパが帰ってくるの待ってたのよ」
ソファで静かに寝息を立てて眠る娘の顔を見て、涙が出そうになる博之だった。




