第3章 それぞれの悩み
玄関に古風な明かりが灯る愛音の自宅は、結構な豪邸だ。亡くなった母ひとみから相続したものだが、その家は大学教授だったお祖父さんが建てたものだった。厳格なお祖父さんは、ひとみが未婚の母になったことを許さず、ひとみは幼い愛音を連れて、家を出てしまっていた。そしてお祖父さんとは長く疎遠になったが、お祖母さんが病気で亡くなってから、ひとみは愛音と共に自宅へ戻り、ようやく和解したようだ。それは愛音が20歳を超えてからのことだった。
その居間のソファで、婚約中の二人が寛いでいる。
「ねえ、拓君。ちゃんと聞いてよ」
「話聞いてるって。でもちょっと待って、もうすぐゾンビ出てくるんだから」
「・・・・・・」
「おらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおらおあらー!」
拓君は愛音の相談を気にもせず、背筋を伸ばして力を込めて、ゲームコントローラーを小刻みに連打している。
「もういい?(怒)」
「うん。何?」
「お母さんが言ってる保証人なんだけどさ。木田さんにお願いしたんだけどね。法的な立会い人が必要な場合は困るって」
「別に正式なこと必要ないでしょ。おっと、危ない!」
ちょっと古い雰囲気の狭い部屋では、大画面テレビとの距離が近い。夢中でゲーム画面を見ながら話す拓君に、愛音は眉間にしわを寄せている。
「じゃ、お母さんにそう言ってくれる? 木田さんも婚姻届の証人にはなるって、言ってくれてたし」
ちょっと大きめの声で話した。
「それでいいじゃん」
「お母さん、それで納得してくれるのかなぁ」
「それより、式場探しはどっかいいとこある?」
「うん。本とかで見てるだけじゃ分からないし、今度一緒に見学に行かない?」
「ああ。いいよ。適当なとこ探しといてよ」
「一緒に探そうよ」
「俺、見ても解からねえもん」
「見たら解るようになるって」
「まだまだ先の話だし、俺はまだいいよ」
「・・・・・・(怒)」
博之は時間のある時に、“後見人”について、スマホで調べてみた。
【法律上、未成年者後見においては、親権者が遺言で指定した者】と記載されている。
「先生には愛音のことを見守っていくって約束したけど、遺言でそう書かれてるわけじゃないしな。それに未成年でもないし」
【認知症や知的・精神障害で判断能力の不十分な人を保護するための成年者後見】というのもあるらしい。
「あいつはまだボケてないし。天然なとこあるけど、結構しっかり者だし」
【一般に、ある人の背後にいて、その補佐や世話をする人】という記載も見つけた。
「これだな。俺これに当たる。ん? 違うじゃないか。俺は父親なんだ。でも法律上は他人てことになってるし」
微妙な立場に頭を悩ます博之だった。
「ふうー」
ダイニングでお茶を入れながら、妻の知子がその様子を見ていた。
「あなた、愛ちゃんに会ってきてからずっと溜息ばっかりついてるけど、何かあったの?」
「いや、相手のお母さんが面倒なこと言ってるらしくってさ。愛音が困ってるんだ」リビングのソファに座る博之は、ダイニングテーブルのほうを見て言った。
「嫁姑の確執がもう始まってるのね」
博之はスマホを置いて立ち上がり、お茶を飲みに、知子のいるテーブルの椅子に移動した。
「そうじゃないよ。俺の問題」
「ふふふ、それは大変ね」
知子は博之から、ひとみ先生との間に、隠子がいたという話を聞いた時には、崩れ落ちて泣いた。しかし、博之自身が42歳のその時まで知らなかったと聞いて、ひとみに対する怒りを感じたものの、そのことは口には出さないでいた。
「へえ。保証人?」
「うん。どこまで本気で言ってるか知らないけど、俺が認知さえしてれば、無用な心配なんだけどね」
博之は湯飲みを覗き込み、考え込んだ。
「認知したいの?」
「そういうことじゃないよ」
「私はいいわよ。秋日子(娘)も来年からは中学だし、もう理解できるから。お姉ちゃんができて、喜ぶと思うわ」
「愛音は先生の気持ちを大切にしたいと思ってるし、それは望んでないと思う」
「じゃ、本当に保証人になるんだったら、私も連名でなってあげる」
「ありがとう。愛音も喜ぶよ」
そして博之は、仕事でも悩みを抱えていた。それは、売り上げが落ちることを先期から予想していて、取引先の『マルケン』という会社から、新しい業務を契約してきていたのだが、それを任した丸川係長の仕事がまずく、うまくいっていないようだった。その件については、社長から逐一報告を求められていた。
「社長、人材不足ですので、これ以上働かせると勤務時間が、36(サブロク)協定違反になってしまいます」
「それでも何とかさせなきゃ、納期が間に合わんだろう。他から誰かまわせんのか」
「すでに応援体制を取ってるんですけど、肝心の丸川が定時で帰ったりしてますんで、誰も本気になろうとしてない気がするんですよ」
「あいつけしからんな。でも奥さんが妊娠中だとか言っとたな。まあ、いろいろあるんだろ。女子でもいいから手伝わせろ」
「実は、女子のほうは小原主任が退職するんで、その引継ぎで精一杯なんです」
「あの娘、辞めるのか?」
「はい、年内でと聞いています」
「木田部長にも、これ以上負担をかけられんしな。よし、台湾の子会社から作業者を呼ぼう」
「それが、以前そこからの応援で繁忙期を乗り切りましたけど、丸川は外国語は全くですよ」
「通訳を雇う余裕はないか?」
「それなら通訳に作業させますよ」
「はっはっはっは。そりゃそうだな。実際、赤字にだけは気をつけてくれよ」
博之は丸川係長を商談室に呼び出した。
「丸ちゃん、新映像チームは立ち上がりそうか?」
「いやあ、難しいですね。これだけ人が少なかったら、物理的に無理ですよ」
「でも7月からスタートさせて、もう2ヶ月経つけど、イベント会場でもすでに5回はセットアップを経験してるだろ」
「それは何とかこなせてます」
「トレーニング期間は今月までで、10月からは君のチームだけでやっていかないといけないんだぞ」
「それは無理ですよ。人が足りません」
丸川は、横を向いて視線を合わせない。
「じゃ、なんでもっと早く僕に相談したり、人の募集をかけないんだ?」
「人を入れても今はいいですけど、仕事がなくなってきたらどうするんですか?」
姿勢を変えながら、ようやく博之の目を見て言った。
「そうならないように、君が営業もするんじゃないか。現場監督だけしてればいいってもんじゃないだろう」
再び目を逸らす丸川係長だった。
事務所に戻ると、小原が怒った顔をしている。普段の外面はいいが、気性の荒い女だからうまくいかない時は、周囲に当たることもある。
「木田さん、ちょっとミーティングいいですか?」
「ああ、分かった」
博之は小原の言うミーティングの意味を悟った。自分も気持ちが穏やかじゃなく、コーヒーを飲みたくなって、二人で食堂に向かうことにした。
「ああ、あの子達何なんでしょうね。3人ともなんかこう、やる気がないと言うか。自分ごとじゃないって言うか」
小原は歩きながらも、怒りが我慢できないようだ。
「丸川もおんなじ」
「係長にもなってですか? 人って動かないですよね」
廊下ですれ違う人に会話の内容を聞かれないように、小原は小声になった。
「自分にできることをすればいいだけなんだけど。できるのにしない。人にやらせることだって、自分にできることを教えるだけなんだよ。でもそれ以前に、自分でもできるようになろうとしてないんだわ。こりゃ参ったよ」
お互い溜息をついた。博之は小原とのミーティングと言っても、仕事としてではなく、お互いに愚痴の言い合いで、ストレス解消してるだけなのだと感じていた。それでも丸川のように、相談さえしてこないよりははるかにマシだ。
食堂に着いた二人は、娯楽コーナーのソファに座った。
「ああ、もう逃げ出したくなっちゃいます」
「・・・君にも逃げられたら、僕はもう打つ手がないよ」
「木田さん・・・、自分のこと普段は『僕』って言いますよね」
「そりゃ仕事上は『私』か、せいぜい『僕』だよ。それがどうかした?」
「『牡蠣小屋』行った時、木田さん自分のこと『俺』って言われたでしょ」
「ああ、普段は畏まってないから、『俺』とか『わし』とかって言うこともあるよ」
「『わし』って言うんですか?(笑)それ、変!」
「会社じゃ上司を演じてるだけだよ。こんなことをしたくて、仕事してるんじゃないけど、俺だってもう、新しいことにチャレンジするようなバイタリティもなくなってきたし」
「『俺』って言われてる方が、なんか私安心します。『僕』とか『私』って言うのは、本音で話せないって言うか、堅苦しい仕事してるんだって気になって」
「俺の立場じゃ、なかなか砕けて仕事するわけにはいかないよ」
二人が座る距離は1メートル。微妙な距離感の中、博之には何かが変わる予感がした。
「私にはもう、ざっくばらんでいいですよ。私もそのほうが気楽ですし。『牡蠣小屋』で私のこと『お前』って呼ばれて、少しキュンてしました」
これこそ小原お得意の、男をキュンとさせる技だ。




