第34章 これも愛
博之の事務所では終業時間を迎えた。人が少なくなった事務所で、博之はパソコンで日報を打ち込んでいる岩瀬と話していると、そこにようやく小原が戻ってきた。
「お待たせしました」
(先に帰るはずないじゃないか。待ってたって事は、分かってくれてるんだな)と博之は思った。
「人気者だから、挨拶に回っても、なかなか開放してもらえなかったんだろ」
誰も口には出さないが、男なら(美人の小原との最後の別れが惜しい)と思うのは当然のことだ。
「そうじゃないです。旦那から電話があって、もう! 最後くらいすっきり終わらせてほしいのに」
博之と岩瀬は、彼女の不穏な空気に動きを止めた。
「どうしたの? またケンカ?」
「旦那が会社で上司に文句を言いに行って、場合によっては辞めるって言うんです」
「旦那さん、会社でもめてるの?」
「旦那ももう暫くしたら退職するんで、人事異動とか嫌らしいんですよ。それで上司にやめてくれるように頼んでたんですけど。ま、私はどうでもいいですけど。なんで、今そんな話を電話でしてくるかな。ホント残念なとこある人なんです」
(皆いろんな事情を抱えて、仕事してるんだな。いつもこんな話題で小原とは仲良くなれたんだし、まあいいけど)
その後小原は、パソコンを開き、メールで最後の挨拶を送信しようとしたが、
「こういうのって、どう書いたらいいか分らないんですよね」
「ネットで定型文引っ張ってきたらいいですよ」
岩瀬が言うと、小原は、笑いながら、
「そういうわけにはいかないでしょ」
「型にハマッてなくてもいいから、素直に『ありがとうございました。皆様のご活躍を心からお祈り申し上げます』って打っとけばいいんじゃない」
と博之が言うと、
「そのほうが型にハマッてませんか?」
と岩瀬が言った。
「ですね。(笑)木田さん、教えてくださいよ」
「仕方ないな。最後の指導だよ」
博之は小原の隣に座った。
「まずタイトルは、『退職のご挨拶』でどう?」
「はい。たいしょくの・ごあいさつ」
そのまま打ち込んでいく小原。
「宛先って、各位、各位様、皆様? どうしましょ?」
「うーん、『お世話になった皆様』はどうかな」
「それいいですね。おせわに・なった・みなさま・へ」
「俺の言うまま打ち込んでどうすんだよ。俺の挨拶になるじゃないか」
「えー? 手伝ってくださいよー」
「手伝うけど、もう少し自分らしい言葉考えろ」
結局30分ほどかけて、小原は打ち込んだ。
その後すぐに、博之のパソコンにも送信されてきた。
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お世話になった皆様へ
この度、一身上の都合により退社することになり、本日が最後の出社日でした。
本来であれば直接ご挨拶をすべきところ、メールでの挨拶にて失礼いたします。
在籍中はたくさんの方々にお世話になり、本当にありがとうございました。
業務を通じて多くの方々と関わり、様々なことを学ばせて頂きました。
壁にぶつかることもありましたが、皆様から温かく叱咤激励を頂き、心より感謝しております。入社してから学んだことは、今後も生かしていきたいと思います。
最後になりますが、皆様の更なるご健勝とご活躍を、心よりお祈り申し上げます。
今まで本当にありがとうございました。
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博之はこんなメールを打つ時、(人はどんな心境になるんだろう?)と思った。
小原が立ち上がり、タイムカードを押しに行った。博之は胸が詰まる思いで、その後姿をずっと目で追っていた。そして・・・
~~~ピー、ジャラ!
タイムカードに印字され、小原の業務はすべて終了した。
印字されたカードを見つめながら、何やら物思いに耽っている小原を、博之はまだ見ていたが、そこに岩瀬が残っているので、小原と一緒に事務所を出るわけにいかなかった。すると岩瀬が振り返って立ち上がり、
「小原さん。お疲れ様でした」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「僕とは短い間でしたけど、色々とありがとうございました。新しい仕事でもがんばってください」
「岩瀬さんこそ、木田さんのことよろしくお願いします。木田さんの目になってあげてくださいよ」
「ハイ、僕でできるかどうか分らないですけど。がんばります」
「ははは、本当に力になってくれ。頼むわ」
博之も立ち上がって、小原を送ろうとすると、
「・・・木田さん。最後の相談いいです・か・・・?」
思い切って言ったのは、そのシチュエーションからもよく分かる。岩瀬に何か不信感を持たせるようなタイミングであることも確かだった。
「うん。いいよ。思い残すことがないように、何時間でも付き合うよ」
「愛ちゃん。仲直りしようよ。俺、いい夫になるからさ」
激しくキスをする拓君。
(今更っ! こんなことして何を言うの?)寒い中、半裸に乱された服で、ソファに押し倒されたまま、愛音は涙を流しながら、キスを避け切れないでいる。
「ずっと、我慢してたんだ。愛ちゃんなしじゃいられないんだよ」
愛音は、抵抗なんか無意味だと知っていた。欲望のまま行動する彼のことをよく解っていたから。
「・・・何も言ってくれないんだね」
そう言うと動きを止め、激しく迫るのをやめて、再びキスをする拓君。今度はとても静かに。
「ううっ(涙)、どうしてそんなに優しいキスができるの?」
愛音はキスされたままで話した。
「愛してるからだよ」
「いつも私の気持ちなんか、考えてくれてないじゃない」
拓君は唇を離して上体を持ち上げ、馬乗りになる形で愛音を見下ろした。その表情は、先ほどソファに一人で座っていた時と同じ目だった。
「もう、君のことしか考えられないんだよ」
愛音はまた、力いっぱい暴れた、しかし拓君は、更に体重をかけて、激しく肩を押さえつけた。愛音は腰を浮かして、拓君を揺り落とそうとしたが、その時お腹の赤ちゃんに負担がかかることを気にして、思い留まった。
「待って、・・・お腹に赤ちゃんが」
泣きながら訴えたが、もうはっきりと声にはならなかった。両手を拓君の腰の下に差込み、自分のお腹を抱きかかえるように守りながら、愛音は目を瞑り、幼い頃の母ひとみとの生活を思い浮かべた。
「・・・・・・・・・」
その時、不意に拓君の動きが止まった。愛音の声を、かすかに聞き取ったからだ。
「赤ちゃん・・・って?」
愛音は泣きながら、声を出そうと努力した。
「そ・うなの・よ。私・・・妊娠・してる・の」
愛音は絶対に打ち明けるつもりはなかったはずなのに、今はこうするしかなかった。
「妊娠したんだ・・・ね・・・・・・」
拓君の表情は更に力なく、虚ろな目になった。
「・・・?・・・・・・???(どんなふうに考えてるの?)」
「だから、あの人に別れろって、言われたんだな!」
「・・・!」
(何を言ってるの? !!! パパ? パパのこと言ってる? 違うよ! 何か言わなきゃ)拓君の表情は苦悶に歪み、次の瞬間、愛音は左の頬を力いっぱい叩かれた。
そして暫く、愛音はその目をじっと見ていた。睨み返しているのではなく、また、見詰めているわけでもない。ただ、暴力者が視界に入っているだけだった。そして、博之のことを思い浮かべた。
「違うの・・・。木田さんのことを言ってるのね。それは違うわ」
「もう、いいよ。ずっとあいつのことばっかり」
拓君の手が愛音の髪を撫でた。頬に流れる涙を指で拭い、その手は首筋を撫でた後、また両手で肩を押さえつけた。そして、
「死のう・・・」
「!!!」
突然拓君は愛音の首を絞めた。彼の表情は涙なく悲しみに歪み、見上げる愛音には天井の電灯の陰となり、この上ない恐怖を増大させた。
「うっぐ、やめて、やめて! 拓君! たく・く・・!」
「俺も死ぬから」
「!・・・やめて! ちがっ・・・あ・人は・・・あの人・・・」
必死でもがいたが、声が出せない。
「死んで、あの世で一緒になろう・・・」
「あ・たの・・・赤・ちゃ・・・」




