第31章 バレンタイン
それからというもの、博之は暫くぶりの平穏な日々を過ごした。
小原の旦那の浮気相談も落ち着き、彼女の笑顔を見る機会も増えた。その反面、博之に泣きつくように頼ってくることもなくなり、恒例ミーティングも行われなくなった。少し寂しい気もしていたが、彼女は新婚の人妻、これが当然の距離感なのである。
新・新映像チームの業務進捗では、丸川が残したトラブルで一層現場はドタバタしたが、却って意識が高まり、手分けするにもお互いに確認し合うようになって、作業分担の効率化が進んだ。博之はもうほとんど手助けしなくても、彼らチームだけで仕事をこなしてくれている。藤尾はリーダーとして、たった3週間でチームを軌道に乗せたことになる。彼は2月から正式に責任者となり、同時に主任に昇格させることになるだろう。それをサポートした岩瀬もリーダーに昇格だ。
秋日子は合格発表以降、安心したのか口数が増えた。家にいる時はほとんど喋っている。食事の時も、テレビを見ている時も、博之が帰宅するなり口を閉じることがないくらいに。それはそれで平和なことだが、もし博之がトラブルだらけで、悩みを一杯に抱えていた時期だったら、我慢できただろうか。
残りの心配は、愛音のことだ。家を出てくれた拓君のことは一安心だったが、まだ家には彼の荷物が残っていて、それを取りにこないことを愛音がこぼしていたからだ。
そして、バレンタイン直前の日曜日。この日は愛音の母親ひとみ先生の命日だった。博之は午前中に愛音の家を訪れ、ホームセンターで購入したモルタルで、壊れたガレージのコンクリートを補修してやった後、昼食に愛音が作ったサンドイッチを食べて、午後から二人で墓参りに訪れた。これには知子もさすがに付いては来ない。彼女にとっては間違いなく他人なのだから。
博之は、ひとみ先生が好きだった大きなユリの花を、墓前に供えて手を合わせた。愛音も横にしゃがんで手を合わすと、長い沈黙が続いた。博之は穏やかに眼を閉じている愛音の横顔を見ては、もう一度手を合わせて待たなければならなかった。その時間は3分以上続いたが、それは故人に報告することがあまりに多かったので仕方ない。
「何話したんだ?」
「拓君のこと」
「先生は分かってくれるさ」
「パパのことも話しといた」
「俺のこと? どんなふうに?」
「お母さん、ありがとうって」
その後、二人は市内の繁華街へと足を運んだ。クリスマスのコートのお礼とバレンタインということもあって、愛音が博之をショッピングに誘ったからだった。
二人で歩くのもすっかり慣れて、仲のいい親子とまではいかないまでも、二人の中に家族意識がはっきりと芽生え、遠慮なく話し合えることが博之は嬉しかった。
「パパ。今何がほしい?」
「うーん。金魚の水層に水草を入れたい」
「な、何それ。デパートに売ってないじゃないよ」
愛音は、笑いながら博之の腕に手を回した。これは初めての行為だった。
「おい。そんなことしたら、恥ずかしいじゃないか」
「パパ。若い子にこんなことしてもらってないの?」
「そんな相手いないよ。それ、親子の会話じゃないぞ」
「ま、しっかりした親子関係でもないし。これくらいはいいでしょ」
「そうだな。お前が俺を避けたりしないでくれて本当によかった」
「私もパパがパパで本当によかった」
「なんだそれ?」
「知子さんとも仲良くなれたし、あきちゃんも私にはもったいないくらい賢い妹だし」
「そろそろ、秋日子にも説明しないとな。どういう反応するかな」
「きっと大丈夫よ。喜んでくれると思うから」
「俺に対して、どんな理解をするかが気になるよ」
「もう中学生だから意味は解るけど、どう受け取るかよね」
「なんか心配だな俺」
「でも私、今まで寂しい人生だと思ってたけど、急に幸せな気分になってきたの」
「婚約解消したのにか?」
「うん、なんかそれは義務的に結婚しようとしてた感じ。幸せにならなくっちゃって」
「赤ちゃんも育てないといけないし、いろいろと大変だけどな。俺らが力になるから」
「ありがとう。今まで幸せは半分くらいしか感じてこなかったのに、パパのおかげで残りの1/2も掴めた気がするわ」
「それはよかった。でも、結婚も諦めないでくれ」
「それは諦めたくないけど、もう年だし。暫くは子育てに専念しなくちゃね」
デパートの催し物会場では、バレンタインフェアが開催されている。日本全国の有名店のアソートを一同に介し、多くの女性たちで賑わっていた。
「この中から自分で選んでよ」
「俺が選ぶのか。それならチロルでいいよ」
「そういうわけにもいかないじゃない。どれがいい?」
「それなら、チョコパフェでも奢ってくれ。そのほうが嬉しいな」
「そう、じゃこの上にいい店があるから、ちょっと並ばないといけないかもしれないけど」
「いいよ。そうしよう」
二人はエスカレーターで上層階のカフェに向かった。その時、博之はある匂いに気がついた。二人の少し前に、背の低いロングコートの女性が立っていて、進むエスカレーターに、はっきりと覚えのある香水の匂いが漂っていたのだ。博之は後姿でも、すぐにそれが小原だと判った。
小原がエスカレーターを乗り継ぐ際に折り返した時、顔がはっきり見えた。
「おーい」
博之が早足で近づいたので、彼女も博之に気づいた。そして、驚いた目をして、
「あっ! どうしたんですか?」
「そっちこそ、買い物?」
と、二人は急に笑顔を作って話した。その時、博之は小原の一段下のステップに立つと、目線の位置は同じくらいになった。後ろから愛音が追いついたのに気づいて、小原はとっさに博之から距離をとった。
「紹介するよ。この子が愛音」
「あ、そうなんですか。あの、あ、こんにちは、小原といいます」
「はじめまして、川島です」
二人は、ぎこちなく挨拶を交わした。
「もう、木田さん、デートじゃないですかぁ」
「うん。そうなんですけど」
「おっと、否定しない。なんだかちょっと・・・」
愛音の前でも、ちょっと口を尖らせて、わざと悲しそうな眼差しをした。さすが小原だ。
「うそうそ。先生の墓参りに行ってきたんだ」
「そうだったんですか」
「母をご存知なんですか?」
ちょっと驚いて、愛音が訊いた。
「ええ。少し伺ったことがあります。愛音さんのこともいつも話されていますよ」
「ええー。そうなんですか? 木田さんの会社の方なんですか?」
「ああ、そうなんだ。愛音には話したことなかったな」
今の一言で愛音は勘づいた。(普通の部下なら私に話す必要なんかないじゃない。特別な関係なわけ?)
ここでエスカレーターは上階にたどり着き、3人はその場で立ち止まった。
「何階に行くの?」
「ちょっと服見て帰ろうかと思って」
「俺達、お茶しに行くとこなんだけど、一緒にどう?」
博之は力一杯に笑顔を作って、誘ってみた。その博之らしからぬ表情に小原は、断らせないつもりなのかと思った。そしてもっと愛音と引き合わせようとしているんだと感じ、
「お邪魔じゃないんですか?」
「そんなことないよ。な、愛音」
「パパがそうしたいんだったら」
「うん。行こうよ。おごるから」
博之は小原が持つ紙袋の中身が気になって、自分へのチョコレートかもと思い、そう言って誘ってみた。そしてバレンタインとして、ごちそうしてくれるはずだった愛音には軽くウィンクした。
「へへへ。ホントにパパって呼ばれてるんですね。じゃ、お言葉に甘えていいですか」
3人はもう一度歩き出して、エスカレーターでさらに上の階を目指した。
お目当てのカフェの前には、10人ほどが並んでいた。
「30分位かかるかな?」
順番に並んだ客が座るイスは、あと2脚しか空いていない。博之がそれに愛音と小原を座らせようとすると、
「いいえ、私いいですから木田さん座ってください」
「いやいや。すぐ順に空くだろうから、先に二人座って」
「あ、それなら私、この間にチョコ買ってくるから、パパ、小原さんと並んでてよ」
愛音はゆっくり後ずさりしながら言うと、
「ああ、そうしようか」
と、博之が答えた。愛音はニッコリと笑ったあと、身を翻して足早に歩いていってしまった。
博之と小原はちょっとバツが悪く、
「座ろっか」
「なんか、気まずくないですか? 愛音さん怒ってらっしゃらないですか?」
二人は椅子に腰かけた。
「何で怒るの?」
「デートだったんでしょ?」
「そんなんじゃないってのに、もう」
小原は、ちょっと真顔で紙袋の中をごそごそとしだした。
「先にこれ渡しときます。いつも気にかけてくださって、ありがとうございます」
きれいにラッピングされたチョコレートの箱を取り出した。それは以前、博之が絶賛して小原に話したことがある銘柄のものだった。
「うわあ。ありがとう。なんかゴメンね。予定外に早く貰っちゃうけど」
「今渡さないと、きっと渡せなくなりそうだったから」
「どうしてさ?」
「・・・愛音さん、きっと豪華なやつ買ってこられますよ。そうしたら私のなんか、渡しづらくなると思って」
「そうかな? あいつにそんなの貰う必要ないけどな。チロル買ってくるぞ、きっと」
「ああ、そんなこと言っちゃって、私、愛音さんに憎まれるじゃないですか(笑)」
「愛音はそんなことしないよ」
「ほら、ホントの親子みたいですね」
「そう見られるのはいいもんだよ。最近あいつも、幸せを感じるんだって言ってたんだ」
「破局したのにですか?」
「そうだよ。やっと相手が家から出てってくれて、向こうの親にも婚約解消を報告できたしね」
「よかったですね」
「あいつと気兼ねなく話せるようになったのは、この半年くらいのことで、お前と同じくらいだよ」
「私と比較したりしてませんか? それはなんか私、不利な気がしちゃいますよ」
(不利って?)博之は、このような話しぶりも、小原特有の男の気を引くテクニックだと思っていたが、最近は素直な気持ちを口にしているだけで、自分は常に男に受け入れてもらえるという自信から来る言葉なんだろうなと思っている。だから博之としても小原は、遠慮しないで素直な気持ちを言葉にできる相手で、そういう女性はなかなかいない。
「女としては、小原のほうが断然魅力的だよ。話の内容も、こっちのほうがドキドキ感あるし、面白い」
「でも、愛音さんとじゃ、敵わない何かを感じますよ。さっき二人を見た時、完全に成立したカップルにしか見えませんでした」
「そう見られることは意外だな。でも、彼女に対して女を感じたことなんか、一度もないよ」
「え? ウソでしょ。あんなスタイルいいのに」
「はっはは、そうなんだ、スタイルいいだろ。俺それが驚きでさ。先生はもっとちっちゃくて、お前くらいの身長だったのに。でもやっぱり先生の娘だから、変な気は起こせないし」
「そうなんですか? 向こうはそんなこと気にしてないと思いますけど。婚約解消したのだって、木田さんがいるからじゃないんですか?」
「絶っ対違うし。俺じゃなくって、俺の家族との付き合いで、幸せ感じるって言ってるから」
「じゃ、本当に家族みたいじゃないですか。それが、敵わない理由ですかね?」
「赤ちゃんお腹にいるから、俺も守ってやりたいんだよ。お前も家族付き合いする?」
「いいっや、それはいいです」
「だろ、今のほうが危険な感じでいいんだろ?」
「私たちちょっと、危ない方向に進んでます?」
「どこまで進むのかな?」
「もう、変なこと言わないでくださいよ」
この時は小原も、わざとらしく引き気味に言った。
「部下には手を出せないよ」
「退職したらもう、部下じゃないってことですからね、私」
「そうなのか?」
「気をつけようっと。それまで我慢できます?(笑)」




