第20章 土壇場の逆転
小原が退職する1日前、少し明るい表情で出勤してきた。事務所に入ってくるなり、その目は博之のデスクに向けられていた。そしてタイムカードを押すと、博之の元にやって来て、その耳元で、
「後でお話が」
と言って、自分の席に向かった。その表情を見て、博之の期待は再び膨らむのだった。
(これって、退職の延期を家族が承諾してくれたってことなのか? また運が向いてきたか?)と思ったが、まず最初に聞いたのは、旦那に強く言われて、喧嘩になったという報告だった。少しがっかりしたが、(いやいや。これでいつも通りなんだ。小原に過剰に期待し過ぎてるだけで、彼女にしたら一所懸命になってくれて、逆に申しわけないな)
「私の気持ちなんか、全然考えてくれてないと思ったんですよ」
「でも、明日退職なのに、今更のお願いで納得いかないのは仕方ないよ。もう俺も無理だろうなって思ってたし、明日が終われば、年末年始の連休がくるから、もう小原がいなくなった場合の準備も、しっかりしておこうって思ってたよ」
「まだチャンスはありそうですよ」
「え? どういうこと?」
「さっき旦那からLINEが来たんです。ほら」
そこに長い文章を、何度も受信していた。
「きっと私が怒ってすねたんで、心配になって、こんなの送ってきたんです」
「どう書かれてるの?」
「昨日は言い過ぎたけど、私の気持ちも考えたら、延長することをもう一度考え直してもいいって」
「え? そうなの? 大逆転じゃない。やっぱり旦那さん、喧嘩なんかしたくないんだよ」
「ええ、私、可愛いですから」
博之は急に胸がドキドキしてきた。普段、こんな胸の鼓動を感じることはほとんどないが、明らかに期待で胸が高鳴っていた。それは、仕事が首の皮一枚でつながったということより、小原がまだいてくれると、思ったことによるのは明白だった。
「私、もう一度説得してきます」
小原の目は自信に満ちていた。
拓君が相変わらずも、愛音の自宅に仕事から帰ってきた。愛音が彼に買ってやった、日産エクストレイルは大きく、古い家のガレージは小さかった。
ガシャン!
車のテールランプ部分が、車庫のコンクリートの柱にぶつけられた。鉄筋コンクリートでつながる母屋でも、震度1ほどの揺れを感じるぐらいだ。愛音はその音を聞いて、玄関から飛び出してくると、拓君がもう一度駐車し直そうとしているところだった。
「もうちょっと左に切って、まだだって、まだまだ! そのまままっすぐ、一回前に出て! ・・・前だって前! 縁石に乗ってる・・・きゃー!」
ダッーン!!!
前輪がガレージ横の通路の縁に当たって身動き取れず。なのに拓君がアクセルを吹かしたので、車体はそれに乗り上げ、大きく上下に揺れて、再び柱に激突した。側にいた愛音は轢かれるかと思い、大声を上げてしまった。
「もう、な、何やってんのよ! 気をつけて!」
拓君はようやく駐車できて、何食わぬ顔で車を降りてきた。
愛音は、ヒビが入った柱と、凹んで外れたバンパー、そして散らばるランプの破片を見て、溜息をついた。それを横目に拓君は、鞄を抱えて素通りしようとした。
「ちょっと、何か言うことはないの!?」
「うん。ゴメン」
「ゴ・メ・ン・じゃ・な・い・でしょう!」
力を入れて愛音が言ったが、
「中入ろう。寒いよ」
愛音は呆れて、物が言えなくなった。その後どうする気だろうと思いながら、先に家に入った拓君の後を付いていくと、ある臭いに気がついた。
「あれ? お酒飲んでるの?」
「うん、忘年会」
「・・・飲酒運転して、どういう気?」
拓君が今の状況を、冷静に理解できていないと分かって、怒鳴りたくなってしまったが、明日になってからこの状況を問い詰めようと、まず、自分を制した。
「ああー。もう疲れたー」
「勝手に寝てよ。そんなにベロベロになって運転するなんて、ホントにばか! バカ!! 馬鹿!!!」
「大丈夫だよ。これくらい」
「大丈夫じゃなかったでしょう! 思いっきりぶつけてるくせに!! んーーー!!!」
愛音はやっぱり我慢できない。このまま追い出してやりたくなった。
「保険で直すよ」
「その保険代、わ・た・し・が、払ってるんでしょうに!」
拓君はそのまま、自分の布団が敷かれた和室に閉じ篭ってしまった。
「あーあ、本当にお荷物!」
益々、婚約解消を本気に望むのだった。同じ屋根の下に彼が居ることも、許せなく思えた。
その頃、博之は残業中である。いつもは小原も博之に合わせ、残業まで手伝ってくれるのだが、この日は実家の両親に相談するため、早く帰宅していた。新年明けて早々から、実家で大豆の選別を手伝うはずだったのを、押し迫ったこんな時期に予定を変えるのは非常識とも言えるが、小原は自分の親なら説得する自信があった。なので段取りとして、まず親の許可を得てから、旦那にもう一度お願いしようと考えたのだった。
博之は誰もいない事務所で、今年の売り上げを計算していた。
「やっぱり、新映像チームで利益は出ないか。俺の取った仕事だし、俺の責任だな」
丸川の態度には我慢ならないが、最近の小原の心遣いがあるから、何とか感情を爆発させずにいられた。
来年から新映像チームを指揮して効率を上げ、十分な利益を確保するには、どうすればいいのか考えるために、それぞれの作業者の日報に目を通していると、あることに気がついた。
「これって、同じ時間に同じ作業をしているな。あっ、こいつもだ。そんなに人数必要ないはずだけどな」
博之は、予定工数よりオーバーしている作業工程に、必要以上の人数が同時に作業している実態に気がついた。
「何かトラブルでも起こってたのかな? いや、そんな報告はどこにもないな」
どうして過剰人員で作業しているのか判らなかった。
「ひょっとして、手分けせずに、全員が同じ作業をして、全員が終了するまでの待ち時間まで、計上してるんじゃないのか? そうだ、そうに違いない。この時間もオーバー。こっちもオーバー。いや、丸川が作業していることになってるけど、藤尾君は係長がほとんど作業していないって言ってたのに、かなりの時間工数が計上されている。これじゃ架空請求みたいなもんだな」
博之は丸川係長の勤怠まで確認してこなかったことを後悔したが、この業務にまだまだ無駄を削減する要素が残っていたことには安堵した。
「ええと、1チーム3人で2チーム作って、二つの業務を平行で競争させよう。俺は遅いチームに入ってフォローすれば、何とかやっていけるはずだ。そうだ、できるに違いない。丸川のやつ、5人で一つの業務を、ダラダラとやってやがったんだな」
博之は、何とか新映像チームの軌道修正が可能だと光が差してきた一方で、今度は小原の業務を引き継いだ3人のフォローをどうするかで、また悩みだした。
「新映像チームのフォローのために、事務所にいる時間がなくなってしまう。ということは、3人の業務の面倒はまったく見ることができない。・・・アカン、破綻してる」
小原の説得がうまくいくことを願うしかないと、翌日の報告まで、深く考えることは止めて帰宅しようとしたその時、
PPPPPPPPP・・・PPPPPPPPP・・・
「ああっ! ビックリしたぁ!」
博之の業務用携帯が鳴った。誰もいない事務所で、胸元に入れていた携帯が大音響を放ったので、博之は飛び上がりそうになった。ポケットから電話を取り出すと、『小原主任』と表示されていた。
(何だろう、もう9時なのに。きっと、いい報告に違いない)(祈!)
「もしもし、木田です」
「木田さ~ん。やりました~」
「え?」
「両親がOKしてくれました」
「本当か? やったー! 小原ありがとう」
「電話でお父さんに話してから、お母さんに代わってもらったんですけど、お母さんが中々『うん』て言ってくれなくて、時間かかりました」
「無理にお願いしてくれて本当にありがとう」
「いいえ、私が納得できなくて残りたいだけですから、それをお母さんに、木田さんにはどれだけお世話になったか、恩がある人だから力になりたいって言ったら、『そういうことなら、協力してあげなさい』って言ってくれたんです」
「本当に? 俺、恨まれない?」
「大丈夫です。逆に、『心配してるだろうから、今すぐ連絡してあげなさい』って言われて電話しました。
「お母さんにも、『迷惑かけてすみません』て伝えてよね」
「はい、でも私のわがままで納得してもらえたのでよかったです。それで、これから旦那を説得するんですけど、旦那には、『私が残りたい』って言ったら、『なんで!?』って怒ってるので、『木田さんの力になりたい』て言うと、嫉妬すると思うんです」
「シット! そうなの?」
(確かにそう思われても仕方ないような会話を、毎日してたけど)少し心配になる博之。
「それで、お願いなんですけど、今回私が残るのは、木田さんから強くお願いされて、断れないってことにしたいんですけど・・・」
「・・・それじゃ、余計、俺、恨まれない? 実際、仕方ないんだろうけど」
「そのほうが、困ってるのが私ってことになるから、旦那も怒るかもしんないけど、理解してくれると思うんです」
(そうか。憎まれ役か)博之は、ちょっと困惑したが、
「うん。何でもいいよ。お前が残ってくれるなら、どんな目にあっても助かるから」
「じゃ、今回は安心してください。今日は最悪の場合、女を出しますから」
「ふふふ、それなら任せるよ。喧嘩しないでね」




