第1章 結婚の事情
博之は会社を定時に出た。他の社員より早く退社するのは気が引ける。しかし、急ぎたい気持ちが先走っていた。
今日博之が会うのは、中学時代の亡き恩師、川島ひとみの一人娘、愛音である。音楽教師だった母親の影響で、彼女も子供の時からピアノ一筋で生きてきた。博之も以前、愛音にピアノを教えてもらっていたことがあるが、最近は余裕がない。
愛音は3年半ぐらい前、先生の3回忌を区切りに一度結婚していたのだが、DVが原因で僅か半年で離婚していた。
博之は帰宅せずに、そのまま愛音の自宅に向かった。逸る気持ちを抑えても、彼のメルセデスだとついついスピードを出し過ぎて、1時間もかからないで到着できるだろう。彼女に会うのはもう2ヶ月ぶりぐらいだ。その間に彼女の婚約者が引っ越してきて、今はすでに同棲しているらしい。
「あと10ヶ月か」
博之は独り言を言った。愛音が式を挙げる予定は来年の6月と聞いている。
(結婚式のオンシーズンに当たり、式場を早く予約しないといけないから慌てているのかな)とそんな想像をしていた。
その途中で、博之のスマホの呼び出し音が鳴っているのに気づいた。助手席に置いたサコッシュに入れたスマホに応答できず、車を道路脇に寄せている間にその音は鳴り止んだ。車を停めてすぐ履歴にかけ直したが、予想通り相手は愛音である。
「もしもし。俺。今、天神さんの前」
[あ、もうそんな近くに? ごめん。今日は外で会って話したいんだけど。いい?]
どこか少し声に元気がない。
「外? どこかのお店でってこと?」
[うん]
「じゃ。晩飯食いながら話す?」
[うん、そうしたい]
「何食べる?」
[ラーメン以外]
「ははは」
[暑いもん]
「じゃあ、カレーもダメ?」
[うーん。それもいいけど、ゆっくり喋れる雰囲気ある?]
「じゃ、お好み焼きは?」
[うん、そっちのほうがいい。『千石』行こうよ]
「ああ、あそこ久しぶりだから、いいよ」
愛音とは最近、このように気兼ねなく会話ができるようになってきた。というのも、表面上は他人であるが、本当は博之の実の娘であった。つまり『隠子』、聞こえは悪いが、そうなのである。別に博之が隠していたわけではないのだが、それは博之がまだ中学生だった時に、ひとみ先生との間に生まれていたという、衝撃の事実を知らされたのが、先生が亡くなる直前、博之が42歳の時だったのだ。その時、秘密にしておいて欲しいというのが、ひとみ先生の遺志だったので、博之は法的な認知もしていなかった。現在この事実を知っているのは、当事者の二人の他は、博之の妻知子だけで、3年前に別れた愛音の元旦那にさえも、知らせていなかったくらい複雑な関係なのだ。
博之が『千石』に着くと、車を停めるために、近くの公園の駐車場に入った。そして、そこのベンチに座る愛音を見つけた。
「暑いだろ。店で待ってればいいのに。車は?」
「拓君に送ってもらったから」
「え? 拓君は?」
拓君とは、婚約者のことである。
「帰った」
「どうして?」
「お好み焼き、好きじゃないからって」
「そうか」
その愛音の表情に、博之は何か面倒な事情があることを予想した。
その店は、博之が通っていた高校のすぐ近くに暖簾を出すなじみの店で、メニューのモダン焼きには、思い出がたくさんある。
「いらっしゃいませ」
「こんばんわ」
「あ、木田君。久しぶりだねぇ」
店のおばちゃんが、博之に気づいて嬉しそうに言ってくれた。
「ご無沙汰してます」
「この前、中川君来たよ」
「ああ、本当ですか。帰ってきてたのか。彼元気にしてました?」
「とうとう映画の監督になってるらしいよ」
「そうなんですよ。まだ夢を追っかけてやがるんです」
中川とは高校で『映画研究会』を立ち上げた旧友だ。
「恵美ちゃんも息子さんとよく来るし、ここで同窓会でもしたら?」
「恵美莉も全然会ってないしな。子供何歳だっけかな?」
「もう春に大学卒業だってさ」
「おお、そうか。もうそんなになるのか。子供の顔も思い出せないくらいだな」
恵美莉とは中学時代から仲がよく、当時の博之とひとみ先生のこともよく知る一人だが、まさか隣に連れている女性が二人の娘だと知ったら、どんな顔するだろうかと博之は考えた。
「座敷空いてます?」
店主のおっちゃんに訊いた。
「おう、いいよ。上がって。モダンでいいね?」
「はい。二つ」
「ビールは?」
「俺、車だし、ノンアルコールで」
おばちゃんは座敷の障子を開けてくれた。
「いっつも思うけど、本っ当にアットホームなお店」
愛音は座布団に腰を下ろして、膝を抱えて言った。
「うん。卒業生全員覚えてるらしいよ」
「こんな店、パパと一緒じゃないと入れないわ」
愛音は普段から、博之のことをパパと呼んでいる。そのことを不思議がる者も多いのは事実だが、シングルマザーに育てられたことから、父親恋しいという印象があり、彼女が特に慕っている博之のことを、父親代わりのように思っているのだろうと、周囲には受け取られていた。
「で、結婚式の話?」
「うん。そうなんだけど。私親戚がいないから、披露宴の人数が竹田家(拓君の家族)とバランス取れないの」
「そうだな。それは分かってたけど、友達多目じゃだめなの?」
「うん。それも変かなぁ?」
母ひとみは一人っ子だったので、愛音には従兄弟などもいない。実際は博之の親戚筋すべてが親族なのだが、その事実は伏せてある。今年の2月に行われたひとみの七回忌法要にも人数が集まらず、寺の住職が檀家の中から母方の遠い親戚を探してくれて、何とか二人参列してもらうことができた。
「その二人には、結婚式に来てもらうんだろ?」
「うん。それ以外候補者ないよ」
「俺が出るのは当然だけど、向こうの家族にしたらコイツ誰? てな感じだな」
苦笑いを浮かべる博之。
「そうなの。拓君も困惑するわ」
「拓君には打ち明ける?」
「それは・・・ううん。ダメ。死んだお母さんが許さない」
「そうだな」
愛音の表情はいつもより暗いようだ。彼女にとって、親族がいないということは、避けては通れない問題だった。
「それに拓君のお母さんは、私に身寄りがないっていうのを、かなり気にしてるみたいなの」
「気にされても、どうしようもないのにな」
「それで、身元保証人とか後見人とかを立てて欲しいみたいで」
「ええ? そんなこと言ってきてるのか? 後見人ていうのは、法律的な制約があるんじゃなかったっけ? 裁判官が決めるとか」
博之は、座敷の外に聞こえないように、小声で話した。
「でないとなんか不安なんじゃない?」
「拓君のほうが、よっぽど頼りないと思うけどな。あ、本音出てしまった。ごめんごめん」
「そうよね。私もそう思うけど」
拓君は愛音より4歳年下の30歳だが、今年のゴールデンウィークに紹介されて、(コイツで大丈夫か?)と思ったくらいだ。
障子が開けられ、店の主人が、
「はいこれ」
と言ってビールを持ってきた。
「おっちゃん。車だからノンアルちょうだいって」
「ああ、そうか。しまった。栓開けてしまった」
「もったいない。愛音、飲むか?」
「それなら仕方ない。私が飲みましょう」
「嬉しそうに言ってる」
店主は渋った顔で笑いながら、栓の空いたビールをテーブルに置いた。
「じゃ。これサービスにしとくよ」
「ありがとうございます」




